muzan6
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
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探偵小説 無惨 涙香小史 作
上篇(疑団)ー6 髪の毛の主
大鞆は心の中で秘かに笑みを催うし、
「ナニその髪の毛なら手前より俺様の方が先に見つけたのだ。實は四本握って居たのをソッと三本だけ取って置いた。それを知らずに残りの一本を取って、好い気に成って居やがる、老い耄(ぼ)れめ。併し俺の方は、若しも証拠隠匿の罪に落ちては成らないと、一本残して置いたのに、彼奴(きゃつ)、その一本を取れば、後に残りが無いから、取りも直さず犯罪の証拠を隠したことに当たる、それを知らないでヘン、何を自慢しやがるんだ。」
と笑う心を押し隠して、
「へへエ、貴方の目の附け所は実に違う。成る程、僕も髪の毛を一本握って居るのをば見たけれど、それが証拠に成ろうとは思わず、実に後悔だ。君より先へ取って置けば好かったのに。」
(谷)ナアニ、君などが取ったって仕方が無いワネ。若し君ならば、一本の髪の毛を何うして証拠にする。初めから証拠にする術さえ知らない癖に。
(大)知らなくても先へ取れば、後で君に問うのサ。何うすれば証拠に成るだらうと、エー君、何うか聞かせて呉れないか。極内緒で、エ一本の髪の毛が何うして証拠に成るのですか。」
下から煽(あお)げば、浮々と谷間田は、誇り裂けるほどに顔を拡げて、
「先ア見なさい、此の髪の毛を」
と云いながら、首に掛けた黒皮の懐中蟇口(がまぐち)から、長さ一尺(30cm)強も有る、唯一本の髪の毛を取り出だし、窓の硝子(ガラス)に透かし見て、
「コレ、是だ。先ず考えて見なさい。此の通り幾曲がりも搖(ゆっ)《ねじれ》て居るのは、縮れッ毛だぜ。長さが一尺ばかりだから、男でもチョン髷に結て居る髪の毛は、是だけの長さは有るが、今時の事だから、男は縮れ毛なら剪(か)って仕舞う。」
(大)本当に貴方の目は凄いネ。
(谷)そうすると、是は女の毛だ。此の人殺しの傍には、縮れッ毛の女が居たのだ。
(大)成るほどー。
(谷)手を下さなければ、髪の毛を握(つか)まれる筈が無い。是は必ず男が死に物狂いに成り、手に当たる頭を夢中で握(つか)んだ者だ。それで実は先ほども、アノ錐(きり)の様な傷を、若しや頭挿(かんざし)で、突いたのでは無いかと思い、一寸と君の心を試して見たのだ。
素徒(しろうと)の目でさえ、無論簪(かんざし)の傷では無いと分かる位だから、その考えは捨てたが、兎に角、縮れっ毛の女が傍に居て、その髪を握(つか)まれた事は、君にも分かるだろう。
(大)アア、分かります。
(谷)其所(そこ)で又、誰かを思い出す事が有る。もうズッと以前だが、博奕徒(ばくちうち)を探偵する事が有って、俺が自分で博奕徒(ばくちうち)に見せ掛け、二月ほど築地の博奕宿に入り込んだ事が有る。
その頃、丁度築地カイワイ(界隈)に支那人(中国人)の張って居る宿が二カ所あった。その一ケ所に恐ろしいアバズレの、そうサ、宿場女郎のあがりでも有ろうよ。でも顔は一寸好い二十四、五でも有ろうか、或いは三十位でも有ろうかと云う女が居た。今思えば、それが丁度此の通りの縮れッ毛だった。
(大)それは奇妙だナ。
(谷)サア、博奕宿と云い、縮れっ毛の女と云い、此の二ツ揃った所は外に無い。そう思うと、心の所為(せい)か、アノ死に顔も何だか、その頃見た事の有る様な気がするのさ。だからして、何は兎(と)も有れ、俺は先ずその女を捕らえようと思うのだ。名前は何とか云ったッけ。
之も手帳を見れば分かる。爾々(そうそう)、爾々、お紺と云ッた。お紺、お紺。余り類の無い名前だから、思い出した。お紺、お紺、尤(もっと)も、今未だその女が居るか居無いか、それも分からないけれど、旨く居て呉れさえすれば、此方(こっち)の者だ。女の事だから、連れて来て少し威(おど)し附ければ、ベラベラと皆白状する。何うだ、大した者だろう。
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