muzan7
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
since 2025.5.27
ページラストへ下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください 。
a:87 t:1 y:0
探偵小説 無惨 涙香小史 作
上篇（疑団）ー７ 長官の諭（さと）し
（大）実に恐れ入ったナア。けれどその宿は何所に在るのです。築地の何所いらに。それさえ教えて呉れれば、僕が行って踏縛（ふんじば）って来る。エ、何所です。直ぐに僕を行かせてください。」
谷間田は直ぐに又茶かし顔に復（かえ）り、
「馬鹿を言え、是まで煎じ詰めた手柄を、君に取られて堪（たま）るものか。」
（大）でも貴方は、僕の為に教えて遣ると云ったでは無いですか。それで僕を行かせて呉れ無いならば、教えて呉れたのでは無い。唯だ自慢を僕に聞かせた丈の事です。
（谷）それほど俺の手柄を奪い度（た）きゃ、行かせてやろうよ。
（大）ナニ、手柄を奪うなどと、その様な野心は有りません。僕は唯だー。
（谷）イヤサ、行かせても遣（やろ）うが、第一君は何（ど）のようにして行く。
（大）何のようにしてッて、外に遣り様は無いですよ。貴方にその町名番地を聞けば、後は出たとこ勝負で、巡査にでも、郵便配達にでも聞くから、訳は無い。その家へ行って、此の家にお紺と云う者は居無いかと、問うのです。」
谷間田は噴き出して、大声で笑い、
「それだから仕方が無いのさ。昨日のうちに人殺しと云う、大罪を犯したのだから、多分は、何所かへ逃げただろう。たとえ居るにしても、居るとは言わないよ。事に由れば、余温（ほとぼり）の冷めるまで、当分博奕も止めるかも知れない。何うしてその様な未熟な事で、調べられるものか。
差し当たり、その家へは行かずに、外（ほか）の所で探偵するのが探偵のいろはだよ。外の所で愈々（いよいよ）突き留めた上は、此方（こっち）の者だ。先が逃げようとも、隠れようとも、そんな事は平気だ。隠れたら公然と御用で以て踏み込む事も出来る。支那人なら一旦隠れた日にゃ、日本の刑事巡査が、何ともする事は出来ないけれど、お紺は日本の女だから。
（大）併し、君、外（ほか）で聞くとは、何所で聞くのだ。
（谷）それを知らない様では、此の事件の探偵が出来る者か。それは最（も）う、君が何時も言って居る、臨機応変だから、俺の様に何所を推（お）せば何（どん）な音が出ると云う事を、チャーンと知った者で無くては了（いけ）ない。是ばかりは、教え度くても教え様が無いから、本当に困るよ。」
この様に云う折りしも、先ほど閉めて置いた入口の戸を開き、
「谷間田、何うした、略（ほ）ぼ見当が附いたかい。」
と言って入って来たのは、此の事件を監督する荻澤警部である。谷間田は悪事でも見附られたかのように、忽ち椅子から飛び退いて、
「へイヘイ、凡そ見当は附きました。是から直ぐに探りを始めまして、ナニ、二、三日の中には下手人を捕（とら）えます。」
と長官を見上げた谷間田の笑顔、成るほど此の時は、愛嬌顔に成っていた。上役に向かえば毎（いつ）でもこの顔。
谷間田は直ぐ帽子を取り、羽織を着て、さもさも拙者は時間を無駄には捨てないと云う見栄で、長官より先に出て去った。後に長官萩澤は、彼の取り残された大鞆に向かい、
「何うだ、貴公も何か見込みを附けたか。今朝死骸を撿（あらた）めて、頭の血を洗ったり、手の握り具合に目を留めたりする注意は、仲々素徒（しろうと）とは見えなかったが。」
大鞆は頭に手を置き、
「イヤ、何うも実地に当たると、思ッた様に行きませんワ。何うしても谷間田は、経験を詰んで居るだけ違います。今その意見の大略を聞いて、ほとほと感心しました。」
（萩）そりゃなア、何うしても永年此の道で苦労して居るから、一寸と感心させる様な事を言うけれども、それに感心しては了（いけ）ないぞ。他人の云う事に感心しては、ツイ雷同と云う事に成って、自分の意見を正しく立てられなくなる。
間違っても好いから、自分は自分だけの見込みを附け、見込み通り探偵することサ。外の事と違い、探偵ほど間違いの多い者は無いから、何うかすると、老練な谷間田の様な者の見込みに、案外間違いが有って、貴公の様な初心の意見が当たる事も有る。貴公は貴公だけで遣（や）って見なさい。
（大）ヘイ私しも是から遣って見ます。
注；雷同・・・自分の意見を持たず、ただ訳も無く、他人の説に賛成すること。
a:87 t:1 y:0
トップ
