muzan8
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
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探偵小説 無惨 涙香小史 作
上篇(疑団)ー8 谷間田の報告
(萩)「遣(や)りなさい。遣りなさい。」
と励ます様な言葉を残して、荻澤(おぎさわ)は立ち去った。大鞆(おおとも)は独り手を組んで、
「旨い、長官は長官だけに、一寸励まして呉れたぞ。けれど貴公の様な初心者とは、少し癪に障るナ。初心者でも谷間田の様な無学には、未だ負けんぞ。
ナニ感心する者か。併し長官さえ、彼(あ)れ程に誉める位だから、谷間田は上手(うわて)は上手だ。自惚(うぬぼ)れるのも無理は無い。けれど俺は俺だけの見込が有るワ。見込が有るに依って、実は彼奴(きゃつ)の意見の底を探りたいと、下から出て煽起(おだて)れば、頭(ず)に乗ってペラペラと多舌(しゃべ)りやがる。
ヘン、彼奴(きゃつ)が経験、経験と経験で以て探偵すれば、此方(こちら)は理学的と論理的で探偵するワ。探偵が道楽で退学させられた俺様だ。無学の老い耄(ぼ)れに負けて堪(たま)る者か。彼奴め、頭の傷を説明する事が出来なくて、頭挿(かんざし)で突いたなどと、苦しがりやがるぞ。此方(こっち)は一目見た時から、チャアンと見抜いてある。
所持品の無い訳も分かって居るわ。彼奴が博奕場(ばくちば)と目を附けたのも、旨(うま)い事は旨いけれど、ナニ、博奕場の喧嘩に女が居る者か。成る程、ソりャ数年前に縮れッ毛の女が居たかも知れない。けれど、女が人殺しの直接のエージェンシー《働き人(て)》と云う事は無い、と云って俺も是だけは少し断言し兼ねるけれど、ナニ失望するには及ばない。先ず彼奴の帰るまでに、宿へ帰ってアノ髪の毛を理学的に試験するのだ。
夕方に成って、又茲(ここ)へ来(く)りゃ、彼奴は必ず帰って居るから、其所(そこ)で又少し煽起(おだて)て遣れば。そうだ、僕は汗水に成って築地を聞き合わせたけれど、博奕宿の有る所さえ、分からなかったと、斯(こ)う云えば、彼奴、必ず又図に乗って、手柄顔に自分の探偵した事も、悉皆(すっかり)多舌(しゃべっ)て仕舞うさ。無学な奴は煽起(おだて)が利くから有難いナア。好い年を仕て居る癖に。」
独言(ひとりごち)つつ大鞆は、此の署を立ち去ったが、きっと宿所に帰ったに違いない。扨(さ)ても此の日の将(まさ)に暮れようとする頃、彼の谷間田は、手拭で太い首の汗を拭きながら、帰って来て、直ぐに以前の詰所に入り、
「オヤ、大鞆は、フム、彼奴、何か思い附いて、何所かへ行ったと見えるな。」
云いながら、先ず手帳、紙入れなどを握(つか)み出して、卓子(テーブル)に置き、その上へ羽織を脱ぎ、その又上へ帽子を伏せ、両肌脱いで、突々(つかつか)と薪水室(まかないへや)に歩いて入り、手桶の水を手拭(てぬぐ)いに受けて絞り切って、胸の当たりを拭きながら、斜めに小使いを見て、例の茶化し顔。
「お前(めえ)、アノ大鞆が何時出て行ったか、知らないか。」
(小)「何でもお前(めえ)様が出為(でさしって)から半時も経った頃だんべい。独りブツクサブツクサ言いながら出て行ったアだ。
(谷)フーム、何所へ行ったか、目当ても無い癖に。
(小)「何だかお前(めえ)様の事を言っていたアだぜ。私が廊下を掃いて居ると、控え所の中で谷間田は好い年イして煽起(おだて)エ利くッて、彼奴浮々(うかうか)と悉皆(すっか)り多舌(しゃべ)って仕舞ったと言(こ)きやがって、エ、お前様(おめやさま)煽起(おだて)が利きますか。」
谷間田は眼を円(まる)くし、
「エ、彼奴が俺の事を、煽起(おだて)が利くって、失敬な奴だ、好々、是から見ろ、何も教えて遣らないから好いワ、生意気な。」
と打呟(つぶや)きつつ、早々と拭き終わり、又も詰所に帰って、帽子は鴨居に掛け、羽織は着、手帳、紙入れは懐中に入れ、又、
「フ、失敬なー、フ、小癪なー、フ生意気な。」
と続け乍(なが)ら、長官荻原警部の控え所に行った。長官に向い、谷間田は、(無論愛嬌顔で)先ほど大鞆に語った様に、傷の様々な所から、博奕場の事を告げ、頓(やが)て縮れた髪筋を出して、差し当たり、お紺と云う素性不明の者こそ手掛りになると説き終わって、更に又、手帳を出し、
「斯(こ)う見込みを附けたから、打附(ぶっつ)けに先ず築地の吉の所へ行きました。吉に探らせて見ると、お紺は昨年の春あたり、築地を越して何所へか行き、今でも何うかすると、築地へ来ると云う噂サも有るが、多分浅草辺だろうとも云い、又牛込(うしごめ)だとも云うのです。
実に雲を握(つか)む様な話しで。でも先ず差し当たり、牛込と浅草とを目差して、先ず牛込へ行き、それぞれ探りを入れて置いて、直ぐ又車で浅草へ引返えしました。何うも汗水垢(あせみずく)に成って働きましたぜ。車代ばかり一円五十銭から使いました。それ是の費用がザッとと三圓サ、でもマア、ヤッとの事に浅草で見当が附きました。
(警部は腹の中で、フム、牛込だけはお負けだナ。手当を余計せしめようと思って。)
実はこうなんです。お紺の年頃から人相を、私の覚えて居るだけの事を言って自分でも聞き、又兼ねて頼み附けの者にも探(さぐ)らせた所、何だか馬道の氷屋に、髪の毛の縮れた雇女が居たと云う者が有るんです。
今度は直ぐ自分で駆け付けました。駆け付けて馬道の氷屋を片ッぱしから尋ねました所が居無い、又帰って好く聞くとー。」
注;紙入れ・・・・紙幣を入れて持ち歩く入れ物。札入れ。財布。
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