muzan9
探偵小説 無惨 小説館版
黒岩涙香 作 トシ 口語訳
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探偵小説 無惨 涙香小史 作
上篇(疑団)ー9 大鞆の自信
(荻)爾(そう)長ったらしくては困る。ズッと端折(はしょっ)て、端折(はしょっ)て、一体全体お紺が居たか居ないか、それを先に云わなけりゃ。
(谷)居ました。居ましたけれど、昨夜三十四、五の男が呼びに来て、それに連れられ、直ぐ帰ると行って出たっ切り、今以て帰らず、今朝から探して居るけれど、行方も知れないと申します。エ、怪しいじゃ有りませんか。
きっと爾(そう)ですぜ。三十四、五の男と云うのが、アノ死骸ですぜ。それも詳しくは覚えて居ないと云いますけれど、何だか顔が面長くて、別に是と云う癖も無く、一寸と見覚えの出来にくい恰好だッたと申します。左の頬に黒痣(あざ)はと聞きましたら、それは確かには覚えて居ないが、何でも大名縞の単物(ひとえもの)の上に、羽織を着て居たと云う事です。コレはもう、氷屋の主人も雇人も云う事ですから、確かです。
(荻)併し、浅草の者が築地までー。
(谷)それも訳が有りますよ。お紺は氷屋などの渡り者です。是までも折々、築地に母とかの有る様な話をした事も有り、又店の忙しい最中に、店を空けた事も有ります相で。
(荻)それではもう、何うしてもお紺を召捕らなければ。
(谷)「爾(そう)ですとも、爾だから帰ったのです。何でも未だ此の府下に隠れて居ると思いますから、貴方に願ッて、各警察へ、夫々(それぞれ)人相なども廻し、その外の手配りも仕て戴き度いので、私しは是から直ぐに又、その浅草の氷屋で、何う云う通傳(つて)を以て、お紺を雇入れたか。
誰が受人だか、それを探し、又、愈々(いよいよ)築地に居る母とか何とか云う者が有るなら、それも探し、又、先の博奕宿が、未だ有るか無いか、若し有るなら昨夜何の様な者が集まっていたのか、その所へ、お紺が来たか来ないか、とそれからそれへ、段々と探し詰めれば、ナニ、お紺が何所に隠れて居ようと、直ぐに突き留めます。
お紺さえ手に入れば、殺した者は誰、殺されたた者は誰、その訳は是々と、直ぐに分かって仕舞います。」
何の手掛かりも無い事を、僅か一日に足りない間に、早やこれ程までも調べ上げたのは、流石老巧の探偵と云える。荻澤への説明が終わって、又も警察署を出て行く。
その門前で、
「イヨ谷間田君、手掛かりが有ったら、聞かせて呉れ。」
と呼び留めたのは、彼の大鞆である。大鞆は先刻宿に帰ってから、所謂(いわゆる)理学的論理的に如何なる事を調べたのか知らないが、今又、谷間田に煽起(おだて)を利かせて、彼が探り得た所を探り得ようと、ここに来た者に違いない。
しかしながら、谷間田は小使から聞き得た事があって、再び大鞆に胸中の秘密を語るまいと思っているところなので、一寸大鞆の顔を見向き、
「今に見ろ」
と云った儘(まま)、後は口の中で、
「フ、失敬なー、フ、小癪なー、フ、生意気な。」
と呟(つぶや)きながら、あの石の橋も踏み抜く決心かと思われるばかりに、足踏み鳴らして渡り去った。
大鞆はその後ろ姿を眺めて、
「ハテナ、彼奴何を立腹したか。「今に見ろ」と云うあの口振りでは、お紺とやらの居所でも突き留めたかな。ナニ構う者か、お紺が罪人で無い事は分かって居る。彼奴はそれと知らずに、フ、今に後悔する事も知らずにー。
それにしても理学論理学の力は大した者だ。タッた三本の髪の毛を、宿所の二階で試験して、是だけの手掛かりが出来たから、実に考えれば、我ながら恐ろしいナア。恐らく此の広い世界で略(ほ)ぼ実(まこと)の罪人を知ったのは、俺一人だろう。
是まで分かったから、後は明日の昼迄には分かる。面白い、面白い。悉皆(すっかり)罪人の姓名と、番地が分かるまでは、先ず萩澤警部にも黙って居て、少しも私には見当が附きませんと言う様な顔をして、散々谷間田に誇らせて置いて、そうだ、明日の正午十二時には、サア罪人は何町何番地の何の誰ですと、明瞭に言い切って遣る。
愉快愉快、併し待てよ。唯一通りの犯罪と思っては、少し違う。罪人が何うも意外な所に在るから、愈々(いよいよ)その名前を打ち明ける日にゃ、社会を騒がせることになるな。輿論(よろん)を動かすことになるな。
条約改正の様に、諸方で之が為に演説を開く様になれば、差し当たり俺が弁士、先ず大井憲太郎君と云う顔だナー。故郷へ錦、愉快愉快。」
大鞆は独り頬笑み、警察署へは入らずして、又も我が宿へブラブラと帰り去った。
アア大鞆は、如何なる試験を為し、如何なる事を発見したのだろうか。僅(わず)か三本の髪の毛、如何なる理学的だろう、如何なる論理的だろう。
谷間田の疑っているお紺は、果たして全くの無関係なのだろうか、疑団又疑団、明日の午後には、此の疑団如何に氷解するのだろうか。
注;大井憲太郎・・・1885年 (明治18)自由党の大井憲太郎らが朝鮮の独立運動と国内の立憲政治樹立運動との結合を企図した事件。(大阪事件)
注;疑団・・・疑いのかたまり。心にしこりとなって解けない疑い。
上篇(疑団)終わり
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