巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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      第一回 探検の書を読む若い貴婦人

 フランスの都パリーのマリシエープと云う町は、多くは豊かに暮らす人々の住む所であるが、その中にあって四囲(ぐるり)に樹木が茂っていて、非常に奥ゆかしい一構えは誰の住居(すまい)であるかは知らないが、室内の飾附けから察すれば、好みも非常に高尚な美人の居だろうとは思われる。

 ここはその居間に違いない。広過ぎもせず狭くも無い一室は、三方に窓を開いて充分な明りを取り、坐(い)ながら庭の景色などを眺めるのに好く、片隅に設けた机は化粧台とも見える作りで、一方には鏡も有り置時計も有り、どれも贅沢な作りで無いものは無い。

 しかしながら少しも合点が行かないのは、書棚から抜き出して、中央にある稍(やや)広いテーブルの上に取散らした、五、六の書冊。きっと評判の好い新版の小説か、そうでなければ音楽又はその他の美術に関わる出版に違いないと思われるのに、そうでは無くて、全ては世の美人達の振りも見向かない種類である。

 今しも読み掛けて立ち去った様に、披(ひら)いたままに残して有るのは、当時全世界を驚動せしめた大旅行家大探検者、彼の英国のリビングストン翁が、道も知れないアフリカ州の真ん中から、地学協会へ寄せた報告書類を集めて印刷したもので、次に並ぶのは上のリビングストン翁を救って帰る為特派せられた米国ニューヨークヘラルド新聞社員、スタンレーの通信を初め、同じ目的で英国から前後二回まで派出した人々の報告書を集めたもの等にして、更にこの外、棚に満る一切の書籍は総て地図又は旅行記の類で無いものは無く、中でも世界中で最暗黒の図として知られたアフリカの内部に関する書類が最も多い。

 素より当時リビングストンと云い、スタンレーと云い、その大胆な旅行は天下各国に鳴り響き、その安否、その消息は何の関係も無い東洋の国々へまで、直ちにルートル会社の電報を以て報ぜられた程のことなので、たとえ女子にもせよ美人にもせよ、求めてその書を読むことは、怪しむに足りないとは云え、これほどまで探険と旅行との書を集めるのは、いずれにしろ尋常(ただごと)では無いと思われる。或いは是れは地学協会の機密室ででも有ろうか。それにしては室内の飾り方が美し過ぎる。

 時刻は早や宵の七時半である。彼(か)のテーブルの上に置かれた燭台ばかりが、人待ち顔に読み掛けの書冊を照らしているが、来て之を読もうとする此の部屋の主人(あるじ)は見えない。主人は女主人(あるじ)か、問うても答えるのは鳴る時計のみ。

 やがて八時を報じ終わると共に、静かに此の部屋に歩み入る一人、我が部屋なので居心も好いと見え、徐々(静々)と歩み寄って燭台の前に坐した。
 その人柄は如何(どんな)だろう見ると、如何(どう)見ても立派な貴婦人である。年は二十五歳より上では無い。だからと言って二十三歳より下では無い。

 丈は中背より心持高い方であるが、身体の優(しとや)かなのは舞台の上でも多くは見られない。正しく美人として最上の発達を遂げた者である。顔は愛嬌にも威儀にも富み、親しんでも馴れ馴れしくするべからずとの趣あり。

 星の如く青い眼に一種侵(おか)し難い決心の光を湛(たた)え、細く締まった唇は小児をも懐(なつ)ける愛らしい言葉をも発し、又三軍を叱咤する号令の声をも発することが出来ると言った感がある。

 誠に善心と決心とを兼ね、又嬉しさと悲しさとを兼ねたような容貌である。誰であっても唯一目、此の夫人の顔を見れば深く浮世の甘味と苦味とを嘗めた身の上であるのを知ることが出来る。だからと言って、時に打ち解けて、婀娜(あどけ)なく笑み語らう様を見れば、今も胸に幾多の青春を蓄えて、是から世に出る清浄無垢の少女かと思われる所もある。

 察するに多分は一旦結婚して、直ちにその夫に死に分かれた、若い未亡人ででも有るだろうか。非常に哀れむべく又非常に愛すべき有様が兼ね備って居ることは一切の様子に見える。

 この夫人は直ちに読み掛けた彼の書を取り、再び読み始めようとすると、此の時入って来た侍女(こしもと)と覚しき女が、無言のままで一枚の新聞紙をその書の傍に置いて去った。是は今しも配達して来た英国のロンドンタイムスである。

 夫人は恋人の手紙でも得た様に熱心に取り上げて帯封を解き、展(の)べ開いて読む間も無く、非常に気を引く文字でも有ったのか、急に又一段の熱心を添え、知らず知らず燭台の下にその新聞紙を差し附けた。



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