ningaikyou11
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
since 2020.4.22
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第十一回 與助の願い
従者、與助が曾(かつ)てアフリカ国に旅行した事が有るとは、初めて聞く所ではあるが、兎に角その土地の事に経験がある人を、下僕(しもべ)として連れて行くのは、きっと万事に便利に違いなく、特に與助は色々なことに器用な男で、主人の髪を整髪し、髭を剃り、又は衣類の綻(ほころ)びなどを縫うには、妙を得ているので、
之を従えて行くことは、今までの遠征者が途中で髭逢々(ぼうぼう)と生茂り、頭髪も紊(みだ)れて、見る影も無く窶(やつ)れ果てて居た事とは異なり、我が一行だけは、何所までもパリ人の粋な姿を落とさずに済むこととなると、流石は夫人と共に行く旅行だけに、少しの見栄えにまで心を配る茂林は、直ぐに連れて行く気と為り、
「併(しか)し貴様は、アフリカへ行くとすれば、月給を増して呉れと云うだろう。」
「イヤそれには及びません。ハイ月給は減らされても好いのです。」
「それほど熱心なら、同行者に相談して連れて行っても遣ろうが!」
「何うかそう願います。その代わり前以てお願いがーーー。」
と云い掛けて少し澱(よど)み、
「ハイお願いが三ケ条有ります。」
「ドレ云って見ろ。」
「私には一人の妹が有りまして、私が旅先で死にでもすれば困りますので、その妹の為に私に生命保険を附け、二年分の保険料を出発の節に払い込んで戴き度う御座います。尤(もっと)もアフリカへ行けば、金などは余り要りませんから、その保険料は月々の給金を以て差し引いて頂きます。是が1ヶ条です。
成る程、芽蘭夫人がアフリカへ出発するには、先ず遺族の為にその身へ保険を附けて置かなければならないと云ったが、與助は既に経験の有る丈けに、この様な事にまで気付いていたかと、茂林は窃(ひそか)に感心し、
「シテその次の願いと云うのは。」
「ハイ、彼地へ着き次第、私は水色の寛(ゆるや)かな長い上着を買い調(ととの)えますから、外へ出る時、それを着て行く事を許して戴き度いのです。」
非常に異様な願いではあるが、
「それは何より易い事だが、併し先ア何だって水色の上着などを。」
「ハイ彼地では多く僧侶がその様な上着を着るのです。それを着て居れば現地人が敬(うやま)います。私はもう下僕(しもべ)として頭を下げて許り居るのが辛いから、せめてはアフリカででも人に頭を下げさせて見度いのです。」
茂林は思わず笑いを催し、
「好し、それから第三の願いとは」
「私が名をマホメットと替えますから、是もお許しを願い度いのです。マホメットとは回教の信徒が非常に尊敬する名前ですから。」
と云う。茂林は少し怪しみ、
「何だ回教とは、貴様は全体アフリカの何処を目指すのだ。」
「ハイ、主人里(アルジェリア)地方です。私が先年逗留して居たのが、その地方ですから。」
茂林は苦々しく、
「馬鹿を云うな。主人里(アルジェリア)は、この国の紳士達が、冬になれば避寒に行く土地で、この国も同じ事だ。俺達が行くのは回教も信徒も無い。人を食う野蛮人ばかり居る所だ。」
「イエそれでも構いません。象や獅子などの居る土地を、是非一度は見度いのです。」
「そうか、それなら三ケ条の願いを聞き届けて、成るべく同行する様に計らって遣る。貴様は本当に罪の無い男だ。」
「ハイ象牙の落ちて居る土地へ行かれるなら、欲も罪も有りません。」
と云うのは、早や象牙など拾って帰って、給金に幾倍する大金を儲けようとの心であるか。茂林はそうと迄も気づかず、
「イヤ今夜は大層更けた。俺は明朝四時に家を出て行かなければならない所が有るから、必ず四時より十五分前に起こして呉れ。」
與助はアフリカへ行かれるその見込みの嬉しさに、乗り気と為り、
「旦那、私はその刻限まで寐ずに居ます。ハイ一分も間違えずにお起し申しますから、サア早速お寝み成さい。」
茂林はグッスリ眠り、四時十五分前に與助に起こされ、直ちに顔を洗い着物を着替えるなどし、やがて戸外(おもて)へ出て行くと、非常に広いパリの町には人通りは殆ど絶え、冷え冷えと秋風が額を吹く心持、何とも譬え様の無いほど爽やかなので、
「アア是なら目的を達する事は確実だ。」
と呟き、独り笑いながら歩いて行くその先は何所だと問うと、昨夜芽蘭夫人に約束した様に、鳥尾医学士の代わりと為るべき医師を説伏せる為で、その医師が日頃賭け勝負に熱心なので、今もまだ徹夜して、勝負を争って居るのに違いないと見、即、そのクラブを目指しているのだ。
間もなく思う場所に着き、歩み入って様子を伺うと、寂然(ひっそり)と静まっている広い建物の中に、唯だ歌牌室(かるたしつ)だけが暈(まば)ゆいまでに燈火が輝いて居るので、早速その中に入って見ると、当の敵とも称すべき寺森と云う医師、宵からの失敗に燥(あせ)って立っている有様で、殆ど血眼と為って勝負を争って居た。
茂林は心に謀(たくら)む所が有るので、
「僕も入れて呉れたまえ。」
とその車座の中に入ると、勝負の場所は誠に不思議な者で、日頃理学の外は何事をも信じないと云う立派な学者達までも、
「運」と云う者を信じ、少しの事にまで延喜(えんぎ)を附け、新手の来た事を喜ぶことと言ったら限り無い。
負けた人は頭数が変わる為に、「運」も我が方に向いて来るに違いないなどと思い、勝った人は、人の増えたのを口実に、切り上げて帰ろうと喜ぶのだ。中でも寺森医師は、茂林の顔を見、ホッと息して、賭表の塵に黒く汚れた手の裳(ひら)で、前額の肝汗(あぶらあせ)を拭い拭い、
「サア茂林君、充分に張って呉れ給え、僕が先刻から堂親で、この一戦限りで破産をする所だ。乗るか反るかの別れ際だ。」
と非常に恐ろしい事を云うのは、殆ど人の命を預かる医師だとは思われない許りだ。
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