巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou112

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第百十二回 顔に墨を塗るのは嫌だ

 実に間者《スパイ》は此の上も無い大任である。女護の洲(しま)である黒天女の国に入り込み、途々(みちみち)で果たして芽蘭(ゲラン)男爵が其の国に入り込んだのか否かを探ることは勿論、その女王輪陀の朝廷に達してからは廷内の様子を伺い、愈々(いよいよ)男爵が捕虜(とりこ)と為って居ると分かったならば、人に悟られない様、極めて秘密に男爵と語を交え、大凡(おおよそ)此の一行の事を告げ、男爵を救い出す手筈を打ち合わせるなどをも為さなければならない。

 聞く所では、美人国は総体厳重に国内を取り締まり、少しの事をも疑って厳しい調査を施し、容易に他国の人を入り込ませない様子なので、その朝廷は取り分け取り締まりが行き届いているに相違なく、女を以て固める丈に、猜疑心が深く、邪推深く、その捕虜を守る様子は、一寸の隙間も無い事のようだ。

 隙間無い隙を潜って間者《スパイ》の使命を達する為には、抑々(そもそ)も誰をか選んだら良いか茂林は深く考え、
 「第一に此の間者《スパイ》は物に動じない勇気が有って、最も頓智が利き、且つは吾々の心を良く呑み込んで居なければ成らない。その様な者が此の一行中に在るだろうか。」

 「無きにしも非(あら)ずサ。君か僕か、寺森医師か此の三人の内なら誰でも適任だ。」
 茂「それはそうサ、吾々ヨーロッパ人ならば申し分無いけれど、唯だ顔色が違って居る為め迚(とて)も間者《スパイ》は勤まらない。黒人の中へ入り込ませる間者《スパイ》は何しても同じ黒人で無ければ、直ぐに怪しまれて勘附かれる。」

 「顔の色は絵の具を使って何うとでも染めるのサ。君は此の土地へ入込んで以来、沢山に原住民の姿を写し、終に原住民の肉色をその儘(まま)寫す絵の具の調合を発明したと確か先日話した様だが。」

 茂「その通りだ。絵の具の調合は充分に発明した。それはもう白人の顔を黒人の色と見分けの附かない様に染めるには十分間も掛からないが、それだからと言って、真逆(まさか)に寺森医師に此の様な辛い使いを頼む訳には行かない。

 そうだからと言って僕が自分で勤めては何うかと云うと、僕は否やだ。既に自分で嫌なものを君に頼むと云う譯にも行かない。君は恋の敵だから殆ど憎さに堪(た)えないけれど、恋を離れて友人として考えて見れば、最愛の友人だ。人の物笑いと為る様な役目には君を立たせ度いと思わない。」

 平洲は心の中に、若し此の役を首尾好く勤める事が出来たなら、今までに無い程の手柄なので、必ず大いに夫人の心を動かす事が出来て、茂林に勝つ見込みも無きにしも非(あら)ずと、この様な念慮が朧(おぼろ)ながら起こったので、
 「物笑いとは何故だ。何が物笑いだ。」

 「イヤサ僕は広く女の気質を研究したが、夫人ほどの聡明な心でも女は矢張り女で、少しの事から生涯その人を賤しむ様に成る事が有る。今若し僕が夫人に向かい、此の危険な間者《スパイ》には私が成りましょうと云って見給え、夫人はその時こそ非常に感心し、アア此の人はそうまで我が為に尽くして呉れるかと、忽(たちま)ち心を僕の方へ移すには違い無い。

 それは目に見えて居るが、さて僕が退いて身体を原住民の様に油墨を以て塗黒め、此の八字の髯を落とし、丸裸で腰の辺りに獣物の毛を巻き、頭に鳥の毛などを挿して、全くの原住民と為り澄まし、目ばかり光らせて再び夫人の前へ出で、それでは行って参りますと云って見給え、夫人はこうも姿が変わる者かと呆れて仕舞い、腹を抱えて笑うに違い無い。

 それ限りでもう僕に愛想を尽かし、心が君の方だけに傾いて仕舞う。後に及んで僕が如何様に粧飾(めか)そうが、一度(ひとた)び尽かした愛想は容易に再び元に戻ると云う事は無く、僕の粧飾(めか)した姿を見る度に前の事を思い出し、少しも尊敬の念は出ずに唯だ可笑しくなる許りだ。

 此の様な役には僕は死んでも立つのが嫌だ。君勤めるなら勤めたまえ。僕は君の恋の敵と云う点からは、手を拍(う)って喜ぶけれど、友人と云う情からは涙を流して気の毒に思う。」

 この様に云われて見れば、成る程此の使いには立つべからず。平洲は平静に我が思い違いを悟り、
 「真にそうだ。僕も恋の敵に失望させて、友人に満足を與(あた)えよう。短く云えば間者の役には当たらない事にしよう。アア君がそう注意して呉れなければ既(すん)での事に、夫人の物笑いの種と為る所で有った。浮雲(あぶな)い所サ。」

 茂「イヤサそれとも君が更にその役を勤めると云えば、僕は夫人が再び真面目に君の顔を良く見ない様に、此の上も無く醜く寧猛(どうもう)に君を塗り立てて遣ろうと思って居た。」
 平「イヤ既に君も僕も勤めないとするならば、冗談はさて置いて、誰にしよう。」

 誰と云う思案は無いので茂林も困って、
 「そうサ、本当に誰に仕よう。」
と考えた様子であったが、頓(やが)て思い附いた様子で手を拍(う)ち、
 「有るよ。有るよ。」
 平「それは誰だ。」
 茂「アノ帆浦女さ。」



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