巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou119

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

since 2020.8.11

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       第百十九回 寺森医師の苦言

 亜利の言葉で初めて知った。芽蘭(ゲラン)男爵の境遇は何と傷(いた)わしいことか。茂林は我を忘れて言葉忙(せわ)しく、
 「オオ男爵が手を後ろへ廻したか。それから何うした、亜利。」

 亜利も説いてここに至っては、殆ど芽蘭男爵への同情に耐えられない様に、声を震わせ、
 「ハイ実に男爵が四辺(あたり)を気遣う様子を見ては、私も気の毒に思いましたが、一刻を急ぐ折ですので、直ぐに貴方がたの手紙を男爵の手へ握らせました。

 本当に危ない所でした。男爵がその手紙を受け取るや否や、輪陀女王は貢物を検め終わり、男爵の傍へ来ました。私は若しや様子を悟られたかと、女王の顔を偸(ぬす)み観ていましたが。その様な様子も無く、女王は近衛の美人に、又も男爵を引き立てさせ、王宮へ入りました。」

 「それから男爵は何の様にして貴様へ返事の手紙を渡した。」
 「ハイ私は、何うしても男爵が返事を呉れるに違いないと、その後は毎日の様に用事を托附(かこつ)けては、王宮へ入り込み、その庭などを見物して居ましたが、時々遥かに男爵が鎖のまま、近衛兵に引かれて散歩する姿を見ましたけれど、傍へ寄る事が出来ません。

 男爵の方でも、番兵に疑われるのを恐れてか私の傍に来ず、私の顔さえも振り向いて見ない程です。その中に愈々(いよいよ)帰る日となりました。是では到底男爵の返事を得ずに、帰らなければ成らないかと、私は失望して居ましたが、

 女王へ暇乞いの為、一同と共に参内した時に、男爵は鎖のままそれと無く私の傍へ寄って来て、一寸と目配せして私の手へ、何やら握らせて退きました。愈々(いよいよ)是が返事だろうと引き下がって見ると、果たして手帳の紙かと思われる物を幾枚か重ねて細かに疊み、表面に名前だけ記した手紙でした。」

 茂「その中には何を認めて有った。」
 「中は私の見るべき者で無いと、大事にして革袋へ入れて持ち帰りました。今し方、寺森医師が芽蘭夫人の許へ持って行ったのがその手紙です。」
 聞き終わって平洲と茂林は顔を見合わせた。

 平「それ見給え、男爵は自由に口さえ聞けない程の厳重な捕虜と為って居る。輪陀女王の美に感じ、喜んで逗留して居るだろう等と云う君の想像は全く無根だ。」
 「アノ時僕もそうは云った者の、真実に男爵が可哀そうに成って来た。如何なる危険を冒しても、早速黒天女の国へ入り込み、男爵を救って遣ろう。

ト云って真に救うことが出来るかどうかは分から無い。吾々自らがその美人軍に殺されて仕舞うかも知れないのだから。」
 「そうさ、殺されるか又は捕虜となるか、その様な事を恐れては居られない。サア、是から直ぐに夫人の許へ往き、男爵の手紙に何と書いて有るか、それを一読させて貰い、その上で直ぐに出発の用意をしよう。」

 この様に云って、三人とも夫人の休んで居る方を目指して引き返して来ると、此の時魔雲坐王は名澤を連れ、何やら非常に立腹の様子で出て来て、平洲、茂林の前に立ったので、平洲は毎(いつ)もの様に名澤を通訳として、
 「何事です。」
と問掛けると、魔雲坐は口から火焔(ほのお)を吐く程の有様で、非常に悔しそうに、

 「聞き給え、女護国の女王は非常に余を辱めた。余は直ぐにその国へ暴れ入り、女王の肉を喰わなければ腹が癒えない。」
と云う。さては魔雲坐から同盟を申し入れた事に対し、女王が何か無礼な返事を与えたと見えた。

 平「どのようにして彼の女王が、御身を恥ずかしめたのです。」
 「その事だが、彼の女王は余の使者に向かい、我が遊林台の国は、第一の強国だから他国が降参して来るのは許すが、他国と同盟する必要は無い。魔雲坐王が若し我が国を敬うならば、降伏の使者を送るべし。同盟などは無礼である。

 此の度は此の事を知らせる為、無事に使者を送り返すが、此の後若し門鳩(モンパト)国の人が、一人でも我が国に入って来たならば、容赦なく打ち殺して、その無礼を懲らしめるだろうと、この様な横柄な返事を送って来た。

 第一の強国とは余の国をこそ云う事だ。余より外に第一の強国と云う者があれば、余は一刻も許して置く事は出来ない。況(ま)して余に降参せよなどと云うに於いては。アア余は是ほど恥辱を受けた事は無い。而(しか)も女の王に。」
と云って、殆ど悔し涙が漏れるかと思われる有様である。

 茂林は此の怒りを幸いに、輪陀女の国へ攻め入る心なので、
 「そうだ、御身が辱められるのは、御身の許嫁である吾等の妹、彼の白女も辱められているのだ。」
と深く後々をも考えず、燃える火に油を注ぐ様な語を加えると、魔雲坐は唯一語、大声に「その通りだ。」と答え、地を踏破る程の勢いで、己が部下の方を指して馳せ去った。

 何しろ事情は益々容易ならない所まで押し寄せたので、平洲も、茂林も無言で深く思案しつつ、又も芽蘭夫人の方を指して進むと、先刻の寺森医師が来て迎え、

 「君方、今夫人の許へ行くのはやめ給え、芽蘭男爵の手紙は夫人がここまで来て居るのを知らず、君方へ読ませる積りで寄越したものだから、僕が夫人から受け取って来た。」
と云って出した。

 平洲は受け取りながら、
 「でも何で夫人の許へ行くのをよせと云うのか。」
 「夫人は此の手紙を読み、潜々(さめざ)めと泣いて居るから、その心が鎮まるまで待ち給えと云うのサ。何しろ夫人は先日来、非常に心が激動して居るから、充分に泣かせて置くのが好い。泣き尽くしたなら、幾分か神経が鎮まるよ。ここで神経を鎮めなければ、追々命にも拘る程の病気になる。」
 
 夫人の身の上は、又実に男爵と同じく憐れむべきだが、平洲と茂林は、男爵の消息と共に、自分等が此の旅行を企てた望みは全く絶え果てたのを知り、日頃の鋭敏な判断を失った際なので、深くは夫人の心を汲み取ること出来ない。

 平「夫人は何を泣くのだ。嬉しくて泣くのか。」
 茂「それとも失望して泣くのか。」
 寺森は毎(いつ)に無く佶(き)ッと真面目に、

 「馬鹿な事を云い給うな。死んだと思った我が夫が生きて居ると分かったのに、それを失望する奴が有るか。未だその夫を救う事が出来るか出来ないかも分からず、夫の現在の境遇を察すれば実に哀れさの極みで有るから、万感胸に迫って、泣かずには居られないのサ。

 それを嬉しくて泣くか失望して泣くかなど、余計な分析だてをする。
一体全体君等の了見が間違って居る。夫人は可通無(カーツーム)《ハルツーム》に於いて、君等に何と言った。

 巴里を出る時は夫を死んだ者と思い、その墓参の意で有ったけれど、ここへ来て老兵名澤の云う所を聞けば、死んだと報告せられた場所で死んでは居ず、その土地を遠く通り過ごした後までも生きて居た事が確かだから、ここで墓参の目的は一変し、夫の生死を探求(さぐりきわ)める目的に成った。

 それに附けては今までの通り、君方を同行する譯に行かないと、何も彼も打ち明けて謝絶(ことわ)ったでは無いか。その時に君方は何と答えた。それでは最初の約束はここで消えた者と見做し、蛮地に苦しんで居る同胞の一人を、救うと言う目的で同行すると、この様に答えたではないか。
 然るに今と為り、愈々(いよいよ)男爵が生きて居ると分かると、異様に未練の心を起こし、夫人の心情を分析するなどとは、余りに罪深い事では無いか。」

と容赦無く叱責すると、今以て恋に心が眩(くら)んでいる両人ではあるが、殆ど夢が醒めて、その夢中に語った己が寝言を、恥じる様な様子があり、思わず知らず首を垂れた。



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