ningaikyou128
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第百二十八回 休戦を提案する寺森医師
巨人の形をした彼の軍神石の下(もと)に集つまる敵の軍は、益々増加する一方である。多分、輪陀女王も此の中に居るに違いない。又芽蘭(ゲラン)男爵も鎖のまま、犬の様に引き連れられ、片時も女王の傍を離されないとの事なので、同じく軍神石の下に来て居るかも知れない。
見て居る中に輪陀女王の号令に因るものと見え、美人軍の前に、男子の兵卒が立ち列(なら)び、美人軍はその後に隠れる様な位置と為った。さては前から聞く様に、美人軍は最後になって出て戦うとの事なので、先ず男子軍に戦わせて、背後から其の手並みを見物しようとする心に違いない。
それにしても此方(こちら)に取っては、ただ美人軍が恐ろしいだけでは無い。男子軍も又恐ろしいのだ。彼等の身体は確かにヨーロッパの人と同じで、魔雲坐の兵より数段優れている。軍(いくさ)だけを仕事とする此の国の男子なので、たとえ美人軍ほど勇猛では無いとしても、軍(いくさ)の掛引きは、決して魔雲坐の兵より劣る筈は無い。
此方の軍は、或いは美人軍の手を労せずして、鏖殺(みなごろ)しと為る様な悲運には落ちないだろうか。敵の勢力が益々増加するのを見て、ここを死すべき場所であると決めた平洲と茂林も、余り好い心地はしなかった。無言のままで望遠鏡(とおめがね)を遣(や)り取りするだけだった。
この様な所へ寺森医師は、白い布へ何やら文字を記した旗の様な者を、旗竿にも着けずに提げて来て、平洲、茂林、両人に向かって、
「愈々(いよいよ)吾々が一同鏖殺(みなごろ)しにせられる時が来た。敵軍の様子を見れば、到底吾々の勝ちと為る見込みは無い。しかし結局此の方が有難いよ。何うなる事かと日々不安の中に迷って居た今までよりも、愈々(いよいよ)殺されると定まった今日の方が安心だ。心配な事が少しも無いから。」
と真に死が決まって安心した様に述べ、二人が何とも返事しないのを見て、更に又、
「けれど君方両人は僕と違い、殺されては成らない身だ。芽蘭(ゲラン)夫人が生きて居る間は、何うしても守護しなければならないから。」
と云う。二人は之を聞いて、顔付が異様に変わるのを制する事が出来なかった。
二人の思う所は又実にここに在って、寺森の言葉はその図星を指したからだ。今に至っては身を捨てる事は固(もと)より覚悟の所だが、唯だ芽蘭夫人をどうしたら好いか。
一里《4km》とも隔たっていない眼前に、多年分かれたその夫が繋(つな)がれて居る事は確かなのを、之にも逢わさずに夫人を殺されて好い者だろうか。
だからと言って助ける見込みも附かず、夫人と一緒に死する事は両人の本望では有るけれど、我が身は軽く夫人の身は重いと、両人とも心中に同じ思いを持って居て、思案が末だ決まらない所なので、更に黙然として立って居ると、
「ここに至っては外に工夫は無い。届くか届か無いかは知らないけれど、僕は君等の為めに、輪陀女王へ休戦を申し込む積りだ。」
休戦とは意外な言葉なので、茂林は怪しんで、
「何だと、休戦だと。」
「そうサ、吾々は少しも黒天女を殺す必要は無い、唯だ芽蘭男爵を救うと云う極めて平和な目的だから、その意を明らかに申し入れて、女王に理解させられれば、或いは女王も平和の交渉を、承知するかも知れない。平和の交渉ならば、君等二人が得意だから。」
茂「今更ら女王がその様な申し入れを聴く者か。」
「聴かなければ元々と云う者だ。申し入れもせずに聴かないだろうなどと、此方から遠慮する事は無い。」
平洲は初めて口を開き、
「そうした所で、何の様にして休戦を申し込む。」
寺森は我が言葉が用いられる色があるのを喜ぶ様に、一際勇んで、
「その使いには私が当たる。」
「使いと言っても、敵の陣へ達しない中に射殺されるよ。見給え、美人軍の前に立つ男子軍等が、弓に矢を当てて居るでは無いか。もう野蛮流に鯨波(かちどき)を揚げて、直ぐに開戦する許(ばか)りだ。」
「イヤ僕は休戦の旗を樹(た)てて行くから、敵も決して僕を射ないだろう。射られた所で今も云った様に元々サ。」
「休戦の旗と言っても、その様な者は吾々は持ち合わせて居ない。」
「イヤ僕は今朝、敵の大軍を見るや否や、直ちに休戦の案を立て、帆浦女に旗を縫わせ、自分で休戦と字を書いて、ヤッと今焙(あぶ)って乾かしたから持って来たのだ。コレを見給え。」
と云って持って居る白旗を広げて示した。成るほど白い金巾(かなきん)《木綿布》を縫い合わせ、之にフランス語を以て、
「休戦」
と記した者である。茂林は、
「休戦の何者たるかも知らず、戦闘条規などを理解しない野蛮人が、此の旗に遠慮して、射る手を停(とど)めるなどと言う事が有るだろうか。」
と嘲笑(あざわら)うのを、
「ナニ、野蛮人は此の旗の文字さえ理解する事は出来ないが、僕は女王の傍に芽蘭男爵が繋(つな)がれて居ると思う。男爵が此の文字を見れば、必死に成って女王に説き、暫(しばら)く射る手を止めさせるに違いない。男爵が弁舌で大いに女王の心を動かす事が有るとは、男爵の手紙にも書いて有ったじゃ無いか。」
と何から何まで考え尽くした返事なので、茂林も再びは嘲(あざけ)られず、平洲は却(かえ)って、
「フム君の勇気には感心した。成るほど目的を達しない所で元々だから、その旗を立てて使者と成って行って見給え。」
と賛成するのを、
「ナニ決して僕は勇気が有って此の使者に成るのでは無い。輪陀女王の美しい顔を無傷の中に見て置き度いのだ。僕が以前から研究して居る皮膚病の大真理が、今は唯だ一個の疑問を残す丈だから、黒天女の皮膚を良く見れば、必ずその疑問が解けて、大発明が完成する。
何うも帰国して、その発明をヨーロッパの医学社会へ披露する事は出来そうもないが、死ぬ前に自分の心だけでも疑問を解いて置き度い。それに此の国の美人へ、黒天女と名を附けたのは僕だから、僕は彼等の名付親だ。親として死に際に、名附け娘の顔を一目見度いと云うのは人情では無いか。」
と、この様な際にまだ冗談を断たないのは、日頃に似合わない勇気なので、是ほど落ち着いて居るならば、萬に一つも此の使命を果たすかも知れないと、今は茂林までも賛成すると、寺森は発明の為に身を犠牲にする学者の本分を失わず、旗を押し立てて、敵陣の方を目指して悠々と歩み出した。
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