巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou130

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第百三十回 同行の婦人は貴方の妻

 徒らに問答して時を過ごす場合では無い。実に是れは必死の時で、戦うか戦うべきでないか、男爵は敵陣から此のまま逃れろ事が出来るか、逃れる事が出来ないかを、速やかに判断しなければならない時であると雖も、再び生きてヨーロッパ人に会う事は出来ないと、先の手紙にも記した様に決心した身が、図らずもヨーロッパの遠征隊が我が身を救う為に来たと聞き、又親しくその一員と顔を合わせては、問わない訳には行かなかった。

 此方も又死んだと思って居た人に逢っては語らない訳には行かない。寺森医師は、遠征の重なる人は誰かとの男爵の問いに対し、
 「ハイ画学士茂林、文学士平洲の両人です。」
 「アア貴方を合わせて三人の苗字だけは、パリを出る以前にも聞いた事が有ります。三君の名は肝に銘じて今後片時も忘れません。」

 「併(しか)しー。」
 「ハイ併し今はそれより大切な話が有ます。私は貴方の旗の文字を見るや、到底許されない許しを得、不断は鎖に繋がれて居ますけれど、鎖を離れて出て来ましたが、貴方がたは先日私が手紙で、決して私を救う事は出来ないから、此の国へはお入りなさるなと堅くお止め申したのに、此の通りお出でになった。イヤ是は私が貴方がただったとしても、遥々麻列峨(マレツガ)国まで来て、後へ引き返す事は出来ませんが、併し私を救う事は全く見込みが無いのです。貴方が唯一人り矢面を冒し、休戦の旗を建ててこの様に歩いて出て来たのは、何の目的です。」

 「私は輪陀とやら云う此の国の女王に逢い度いのです。言葉は通じませんけれど、逢えばきっと貴方が通訳して下さる事と思いました。逢って我々の目的の平和に在る事を告げ、成るべく残酷な戦争などをせずに済まそうと思いました。」

 男爵は一言に、
 「それは無駄です。」
 「何故に。」
 「何と説いても決して輪陀女王は承知しません。その様な気質では無いのです。既に女王は門鳩(モンパト)の王魔雲坐(マウンザ)とやらが兵を卒(ひき)いて此の国へ入り込んだ事を、十五日以前に聞きました。その中には数人の白人も居ると聞きましたが、怒りに白人と門鳩(モンパト)人との区別をも忘れ、貴方をも非常に憎んで居ます。

 私はその白人とは必ず貴方がただと思い、毎日女王に暴力を用いない様に説きましたけれど、女王の信ずる占者も、又国民の多数も、戦争を主張して今日に至りました。戦えば貴方がたが負けるに極まっていますけれど、悲しい哉、この様に申す私でさえ、貴方がたを助ける工夫が有りません。」

 「でも必ず我々が敗けると決まった譯ではないでしょう。」
 男「如何して如何して、此の国は全国民皆兵と云う有様ですもの、遠国から攻めて来た門鳩(モンパト)の兵が、萬に一つも勝つ事は出来ません。軍神石と云うアノ高い石の下に居る兵士の、体格見ても分かりましょう。

 私が貴方がたへ、決して此国へ入り込むなと堅く制して上げたのも、全く此の国を攻め亡ぼす見込みが無い為です。何事も軍隊組織で厳重に厳重を加えて居ますから、私さへ貴方がたの陣へ逃げて行く事が出来ません。」

 寺森は此の一語には少し驚き、
 「エ、エ、貴方はここまで出て来たのに、私と一緒に吾々の陣へ逃げて行く事さへ出来ませんか。」

 「それが出来れば貴方とここで話はせず、疾(と)っくに貴方の陣へ逃げ込んで居ます。先ず軍神石の傍(かたわ)らに居る美人軍を御覧なさい。彼等は悉(ことごと)く近衛の精兵で、私を逃がさない任務を以て居ます。私は此の方角に向き足数まで制限せられ、ヤッとここまで来たのですから、ここより一歩でも貴方の陣の方へ進めば、美人軍が飛鳥の様に飛んで来て、貴方を殺して私を連れ帰ります。

 今はまだ幸いにして、少しの猶予が有りますから、貴方がたの遠征隊は、ここから直ぐに元来た道へ引き返し、本国へお帰りなさい。ハイ私だけを此の国へ残して帰るのは、遠征隊の本意では無いでしょうが、今はそうするのが一番です。その代わり私は必死になって女王を説き、白人には何の害をも加えずに立ち去らせよと、沿道へ触れさせる様に計らいます。」

 「イヤ今と為っては吾々は引き返す事は出来ません。魔雲坐王は此の国の兵と力比べをし度いと云い、その目的ばかりの為に来たのですから、若し女王が彼に平和の面会を許し、同盟国の約を結べば兎に角も、そうでなければ、魔雲坐王の方から戦いを挑みます。」

 「イヤ女王が今更魔雲坐王と平和の面会をするなどとは、決して出来ない所です。」
 「では双方の戦争は最早や避ける事ができません。」
 芽蘭男爵は惆然(ちゅうぜん)《恨む様に》として、
 「成る程避ける事が出来ません。戦争をする一方です。」
 「戦争をすれば、吾々が敗けて殺されるに決まって居ると云うのですね。」
 芽蘭男爵は黙然として答える事が出来なかった。寺森は一際その声を切なそうにして、

 「貴方は、私と一緒に遠征隊の陣へ、逃げ込む事が出来ないと仰(おっしゃ)るけれど、遠征隊には、フランスから吾々と同行した婦人の有る事を、御存知有りませんか。」

 「知って居ます。沿道の民から女王への報告に、白い婦人が二人同行して居ると有りましたが、無論唯今聞いた文学士平洲君と画学士茂林君の令室でしょう。御両君は曾て李敏敦(リビングストン)翁や米可(ベイカー)将軍の様に、令室同道で遠征を試みたのでしょう。」

 寺森は熱心に、
 「イヤその夫人はパリへ残された貴方の妻です。ハイ芽蘭(ゲラン)男爵夫人です。」
と力を込めて言い切ると、大勇と聞こえた男爵も、之には立つ足の蹌跟(よろめ)くほど驚いて、

 「エ、私の妻が、私の妻が貴方がたと共に遠征隊に加わって、此の地まで来て居るのですか。」
と叫び更に思い直して、自ら自分の熱心を恥じる様に、
 「その様な事は有りますまい。」
と言葉丈は静かであったが、眼が異様に輝くのは、多くの深い思いが湧起こった為に違いない。



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