ningaikyou143
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第百四十三回 本目紳士達に驚く平洲
大石が破裂してその響きが漸く鎮まるのを待ち、鳥尾医学士と本目紳士はその所に進んで行き、破裂の跡を調べると、岩は全く何千年の昔し高い所から落ちて来て、谷間の狭い道に介(はさ)まり、その出口を塞(ふさ)いだもので、岩が飛び散った後には何の障害も無く、谷間の道は直線に開けた。
思いに違わず、此の所は山が尽きた所で、谷間の道もここに尽き、二人は絶壁の上に出る事が出来たので、先ず下の様子を見ると、広い野原は乱軍の跡を留め、死傷者が算を乱して横たわって居るが上に、一軍が大石の破裂に驚き、総崩れと為って逃げ散った様子は明白である。
本目紳士は智慧逞しく心落ち着いた人なので、此の様子に驚きもせず、早くも委細を見て取って、
「アア吾々はヨーロッパ人の軍を助けたのだ。見給え、銃器を持った一隊が向こうの方に無事で居る。」
鳥尾医学士は未だ夢中の有様で、
「芽蘭夫人も無事だろうか。」
「何を云うのだ。果たして夫人の一行か否かすら未だ分からないのに、その様な事が分かる者か。併しナニ、今に分かるよ。縄梯子を掛ければ、此の崖を降(くだ)れる。崖の下には今落ちた大石が、我々の踏み段の様に成って居るから、僅かに二丈《約6m》ほどぶら下がれば、後は石を踏んで降りる事が出来るだろう。」
と云い早や人足を呼んで縄梯子の用意を命じた。
下には平洲、茂林が、此の二人を神の様に思って進んで来て迎いたが、真逆(まさか)に此の二人を本目、鳥尾の両人であるとは思わない。両人も又多勢群がれる中に、平洲等の姿を見分ける事は出来ず、唯だ何者とも知れない一団だと思うばかり。
そのうちに幾條(いくすじ)もの縄梯子は、崖の下まで届いたので、本目は戦場の有様が、唯だ騒がしいだけで、最早や何の危険も無いのを知り、鳥尾と並んで更に人夫の中の幾人かをも引き連れ、共々に崖を降り初めたが、降りて今落ちた大石の上まで来て、初めて此の石の下に、幾百と数知れない生霊の圧し潰されたのを知った。
石の周囲の低い所へは、鮮血滾々(こんこん)と流れ出て、手足胴首などが千切れて、石の外に喰出(はみで)て居る者も少なくなかった。流石の本目紳士も是には慄(あっ)と身の寒さを覚いたが、本目紳士よりも神経の鋭敏な鳥尾医学士は、殆ど此の有様を見ることに耐える事が出来ないと言った様子で、
「之は恐ろしい有様だ。」
と叫んで石の上に腰を落とし、再び立ち上がる事が出来なかった。本目紳士は之を励まし、
「君は医者の癖に死骸に驚いて何うするか。」
「イヤ死骸には驚かないが、これ程までに多数を殺そうとは思わなかった。石の真下に是ほどの人が居ると知って居れば!」
「イヤ石を落としたのは僕だから、その罪は僕に在るが、ナニ併し此の多数を殺して、同国人を助けたから、僕は罪とも何とも思わない。サア立ち給え。」
と言い聞かせたが鳥尾は人を助けるべき医師の身として、却ってこの様な無惨を仕出来(でか)した事を思っては、心の平穏を保つ事が出来ないのか、目を閉じて石の下を眺め無いように勉るばかり。
「その様に気が弱くては、芽蘭夫人に逢う事も出来ないだろうぜ。」
此の一言には驚くべき力があり、鳥尾は縄を引いて我破(がば)と立ったが、此の時石の前の方から忽ち、
「鳥尾君万歳、本目君万歳」
と呼ぶ声が聞こえ、従って幾十幾百人の歓喜する声も聞こえた。
本目も鳥尾も一様に目を見張って、初めて平洲、茂林等が石の前の遠くない所に立ち、両手を開いて迎えつつ有るのを認め、
「オオ君方か。」
と一声に叫び、転がる様に石から辷(すべ)り降りると、ここは幸い地盤が稍(や)や高くて、血も無く死骸も無い所だったので、二人は身を投げる様に平洲、茂林等の開いた手に飛び入り、暫しは互いに抱き合い、身を揺すり合って喜んだ。
歓天喜地とは真にこの様なことを云うのに違いない。
頓(やが)て平洲は手を解いて、呆れる様に二人の顔を見、
「先ア君等は何して来た。石の砕けた間から君等が現れようとは思わなかった。」
「イヤ君等の一行に逢う積りで、残日坡(ザンジバル)の方から来たのさ。僕等も君等の冒険の手紙を読む度に、何の波瀾も無いパリの暮らしが飽き飽きした。それに鳥尾君も母御が没して、その身の自由を得たのだから。」
茂林はこの様な間にも、パリを出る時、手柄を以て競争しようと云ったその約束を忘れず、
「それは重々結構だが、何しろ吾々の手柄は全く鳥尾君に奪われて仕舞い、我々の可通無(ハルツーム)以来の千辛萬苦も、軍陣石を打ち毀した鳥尾君の手柄に比べれば、物の数にも足りない。」
平洲も之れに和し、
「真に鳥尾君は我々の命の親だ。若し軍神石が破裂しなければ、吾々は今頃は何の様な死様をして居たかも知れない。」
本目は笑いながら、
「イヤ君等、心配し給うな、石を破裂したのを若し手柄とすれば、鳥尾君はその手柄を辞し、僕に譲ると云う事だ。僕などは君等三人の約束外だから、たとえ手柄の競争に勝ったとしても、君等の褒美を横取りしようとは云わない。ネエ寺森君。」
と言って、その身と同じく約束外である寺森医師に向かって、念を押した。
この様な間にも鳥尾医学士は、唯だ其処彼処(そこここ)と目を配って何者をか探す様子であったが、今は我慢が出来ないのか、
「シタガ芽蘭夫人は何所に居られるか。」
「心配し給うな。夫人ははアノ木の下にーーーー。」
茂林も語を添えて、
「しかも夫芽蘭男爵の介抱をして居るのだ。」
芽蘭男爵が未だ生きて有りとは、鳥尾医学士の夢にも知らない所なので、
「エ、芽蘭男爵が。」
と打ち驚くのに、寺森は職務だけに、
「オオこう云う中も男爵の容体が心配だ。僕一人で実に責任の重すぎるのを恐れて居た。同業である君が来たのは何より嬉しい。兎に角僕と共に男爵の傍へ行こう。」
と手を取れば、鳥尾は唯だ久し振りで芽蘭夫人の前に出るのを本望と思った様に、男爵の事は問い返しもせず、
「何れ何所に。」
と言って熱心に進んで来た。
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