巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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      第百四十四回 芽蘭夫人に夢中の鳥尾医師

 鳥尾医学士が芽蘭(ゲラン)夫人の傍を目指して進んで行くその時までも、芽蘭夫人は夫の介抱に余念が無く、殆ど我が身辺に何事が起こりつつ有るのかを知らなかった。素より軍神石が破裂して、その所からヨーロッパ人が現われて降(お)りて来て、此方(こなた)の一同に歓迎せられた様子などは、全く心に入らなかったのでは無い。心に入っても心ここに無かったので、その現れた人が誰なのかや、何の為に歓迎せられたのかなどは、自ずから見極めようともしなかった。

 この様な有様なので、自分の背後(うしろ)の草の中から、輪陀女王が恨めしそうな眼を光らせ、息を凝らして忍び寄りつつ有る事などは、固より思い寄る筈も無く、更に夫の傷所を結び、その血を拭いなどして、呼吸の一高一低を非常に気遣わしそうに見守って居た。

 女王は得たりと思ってか、縄に縛られた身を引いて、少しづつ忍び寄った。縄が全く解けたのでは無く、唯だ一部を切る事が出来た丈なので、未だ充分にはその身の自由を得ては居なかったが、愈々(いよいよ)丁度良い所まで近づいたので、足を跳ねて躍(おど)り掛り、その鎧の刺を以て夫人を男爵と同様に傷つけるのは難くも無い。

 左右(そう)する間に女王は夫人の背後只だ一間《1.8m》を余す程の所に到り、最早や躍り掛っても届きそうだと、目を以て距離を測り始めたが、此の時夫人は前面に人が来る様子があるのを知り、初めて顔を上げて眺めると、寺森医師と手を引き合って進んで来る一人があった。

 きっと軍神石の背後(うしろ)に現れた珍客に違いないと、更にその顔を見直すと、彼方(あちら)も夫人の顔を見て、初めて目と目を合わせた。夫人は日頃の物静かなのにも似ず、非常に驚き、殆ど我を忘れた様子で立ち上がったが、今立ち上がったのは天の助けである。

 まさに飛び掛かろうとして、後ろに身構えつつ有った輪陀女王も、此の異様な振る舞に、相手の心を測り兼ねて、直に草の中に隠れ伏した。夫人は立って非常に恋しそうに鳥尾医学士の方に、三歩ほど走り出たのは、心の迷いに引かされた者に違いない。

 医学士も寺森の手を悶かしそうに振り払い、此方(こちら)を目指し突々(つかつか)と進み出たが、此の時夫人は忽ち我が迷いに心附き、鋭い悔悟の念に責められ、又夫の許に馳せ返って跪坐(ひざまず)き、死んでいるのか生きて居るのか定め難いその夫の顔に口を寄せ、泣いてその前額の邊を接吻する様に見えたのは、たとえ一時たりとも我が心が迷った事を詫び、再び変わらない清き心底を誓う者に違いない。

 背後の輪陀女王は今思いを果たさなければ、果たす時は無いと見た様に、又その首を草の上に現したが、此の時は既に遅かった。寺森医師は之を見て、馳しって来てその縄を取って引き退け、
 「名澤、名澤」
と呼び立てて応じて来た老兵に引き渡した。

 その間に鳥尾医学士は夫人の傍まで進んで来たが、夫人は身を起こして迎えたけれども、顔にも形にも再び迷おうとする色は無い。日頃の様に優しく落ち着いた態度で、
 「実に貴方がお出でとは意外でした。」
と云う。鳥尾は心を鎮める事が出来ず、夫人の差し出す手先を震える手で握り締め、震える声で、

 「老母に死に分かれましたから、貴女の後を追う外に、私の勤めは無くなりました。」
と云う。その口調は、別れた時の熱心さが増しこそすれ、少しも衰えて居ない事を知るに足りる。夫人は淡く、
 「オヤ御老母がーーー、それはお悼(いた)わしい次第です。」
と受け流し、更に、

 「私が可通無(カアツーム)《ハルツウム》から差し上げた手紙を、貴方は御覧に成りましたか。」
と問う。
 「イエ、可通無《ハルツーム》からは何のお手紙も着かない中に、巴里を立って来たのです。そのお手紙には何事を。」

 「ハイ夫芽蘭(ゲラン)が死んだと云う報告が、間違いだと分かったので、墓参の目的は変わり、是から夫の居所を尋ねる事に成ったとこう申し上げました。」
と何より先に此の一事を言い出したのは、最早や主ある一身なので、昔日の様に人と親しく交わる事が出来ない事を含め、心の在る所を示す者であるに違いない。

 鳥尾は今初めて聞く事では無いが、顔の色を青くして、
 「シテその芽蘭男爵の居所は捜し当てましたか。」
 「ハイ此の通りの有様です。ここに倒れて居るのが夫です。貴方の術を以て助けて下さらなければ、廻(めぐ)り逢ったまま又分かれるかも知れません。」
と云う。

 眼の中には涙が溢れようとする様子である。鳥尾も初めて医師と云う我が本分に立ち返えり、
 「ハイ人間業で助かる者なら、佶(きっ)と私が助けます。」
と云い、呼吸が未だ有るのか無いのか定かで無い男爵の傍に座し、その傷を検め始めると、この様な所へ寺森医師も帰って来て、共々に診断した末、鳥尾は幾分か安心の色を浮かべ、

 「ハイ傷は軽くも有りませんが命に関わる程でも有りません。」
 夫人は真実嬉しさに耐えることが出来ない様に、
 「では助かりましょうか。」
 「私と寺森君とで技術の有る丈は尽くします。併し只今の急務は涼風の流通する木蔭へでも運んで行くに在りますから、平洲君、茂林君等を呼び、その相談を致しましょう。」
と云うのは確かに助かる見込みが附いたる者に違いない。

 寺森も同意して、
 「ハイ私の考えでは貴方がたの来た、アノ軍神石の背後の山へ運んで行き、土地を転ずるのが第一です。此の様な所に長居の必要は有りませんから、敵に再挙の恐れの無いうち、一同ここを立つ事にし、兎に角も勢揃いを致してみましょう。]
と云い自ら立って一同を呼び集めたが、残らず揃った中に唯下僕與助のみ行方が知れなかった。



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