巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou150

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第百五十回 輪陀女王の心底は

  黒天女の国を出て既に十日に近づき、旅を重ねて来たが、ここ迄も女王が一同の後を追い掛けて来るとは、心の中の哀れさも察せられる。まして衣も無い有様で、昼は寝て夜だけ寒さを凌ぐ為め走りに走って、道も無い山また山を辿(たど)って来たとは、抑も(そもそ)も何の因果だろうか。

 寺森医師は非常な憐れみの念に動かされた。是と云うのも畢竟は自分が彼の女王を遊林台の国から連れ出たからの事なので、成るべくは今一度説き諭し、糧食を與えて其の国へ帰らせようと思い、自ら一行が出発した後に踏み止まり、老兵名澤を案内として、女王が潜んで居ると云う、巌の後まで行って見ると、全く名澤の云った通りであった。

 女王は潜んでここに居た。しかしながら何と言う有様だろう。腰の邊(ほとり)に少し許(ばか)り物を纏(まと)って居るだけで、其の外は裸体(はだか)も同様の姿で、如何に熱帯の地とは云え、夜に入れば寒いこと冬の様な山の中なので、成る程ただ走りでもしなければ、殆ど凌(しの)ぐ事は難かしいに違いない。

 まして数日来闇夜と云い、昼さえ道の無い所なので、躓(つまづ)きもし転びもしたに違いない。背とも云わず肩とも云わず、所々に打ち傷突き傷などが有る。血の滲(にじ)むままに任せた様は痛々しい事限り無い。

 此の時まで寺森の来るのを知らなかった事もあるが、或いは宵よりの疲れに居眠りでもして居たのか、女王は蹐(しゃが)んだままで、旭日(あさひ)の照らす方に背をを向け、寒む相に身震いして居たが、足音に驚いて其の美しい顔を挙げた。

 如何にも名澤の言った様に、幾日の飢えに形は聊(いささ)か衰えたとは云え、年はまだ若い女盛りの事なので、少しも容貌に損する所は無く、真に天女の名に背いて居ない。先に五千の美人軍を率い、陣頭に現われて寺森医師を許して返した時の様な凛々(りり)しい威風は無いが、威風の無い所に却って幾許の趣を加え、取り分け其の寒さに悩み、飢えに疲れて何と無く少し悲しそうな面持ちの見える様は、壮厳な四辺の光景に相まって、一層哀れを増している。

 寺森は少しの間、言葉を発せず眺めて居たが、女王は流石一大国に君臨した身が、この様な浅間しい有様を異国の人に見られるばかりか、又其の憐れみをさへ受けようとするのを嫌う様に、突(つ)と立ち上がり、何か身構えすると見る間に、飛燕の様に身を躍らせて、横手にある茂りの中に飛び入って、早くも其の姿を隠した。

 女王が他の美人軍一般の者と同じく、身が軽くて進退の捷(はや)い事は前から聞いて居たが、これ程迄とは思わなかったので、今は親しく見るに及んで、寺森は殆ど夢の様な心地がし、空しく茂りの中を差し覗くのみであった。しかしながら女王の姿は再び認める事は出来なかった。

 更に名澤と手を分かち、茂りの中にまで分け入って及ぶだけ捜した末、終に絶望して此処を引き上げたが、この様にして一同に追い附いた後も、未だ女王の身が心配で、幾度と無く空しく背後を振り返った。

 是から二夜、寺森は暁(あけ)方に及ぶ毎に、風の持って来る女王の叫び声を聞いた。
 非常に遠くして且つ微(かす)かなので、絶え絶えに聞こえるだけだったが、或時は峰に出で、或時は谷に沈み、その悲しそうな事は言い様が無かった。

 最早やその故郷へ追い返す見込みも絶え果てたので、何とかして取り押さえ、兎に角一行の捕虜として、飢え死にだけでも凌ぐ様、食物を與える事にしようと、色々思案した末、夜の明けると共に心を決して男爵及び魔雲坐等が看病されて居る天幕に行き、夫人に逢って、初め彼の女王を連れ出した事から、途中で夫人の心を憚(はばか)って解き放した事、其の後更に女王が追い掛け来て、夜な夜な悲しい声が聞こえる事迄、漏れ無く語ると、

 夫人も昨夜看病に夜が更けた頃、その声を聞いたと云い、非常に憐れみの心を起こし、我が身に対して少しも気兼する所は無いので、人夫の総出を命じて迄も、女王を探し出すようにと云った。

 しかしながらそれほどまで大掛かりに手を尽くすにも及ばないので、寺森は唯夫人の許しを得た事を喜び、その中には再び女王を認め得る時もあるに違いないと思ったが、果たせる哉、此の日も暮れて、一同が再び露宿して夜が更け、人が寝静まった頃に、女王は何所かから立現われ、誰にも見咎められまいと忍びに忍んで、露宿の近くまで窺(うかが)い寄った。

 寺森は若しやこの様な事もあるだろうかと、老兵名澤と打ち合わせ、部下幾人かと共に、密に寐ずの番を張って居ると、焚き残した篝(かがり)の火影(ほかげ)に、薄暗く女王の姿が見えると共に、之を捕える手配りを為し、油断なく透かして眺めると、女王は容易には近づいて来ず、身を屈めて遥かに幾個かの天幕を伺って居るのは、恋しい人が孰(いず)れに在るかと探って居るのででもあろうか。

 それともまだ眠って居ない人が有るのを気遣い、大事を取って伺っているのか。寺森はこの様に思う中、又一種の疑いを起こし、若し芽蘭夫人を恋の敵の様に思い、刺し殺す心で忍び寄って来た者ならばどうしよう。其の様な事でも有ったなら、夫人に女王の憐れむべき様子を訴えた我が責任こそ重いので、兎に角女王の心底を見定めた上の事にしようと、その考えを名澤に細語(ささや)くと、名澤は打ち消し、

 「ナニその様な深い考えが何で女王に有ります者か。唯だ喰い残りの食物でも探しに来たのです。腹が空いては女王でも貴婦人でも、泥棒猫と少しも異(かわ)りは有りません。」
と云う。

 「それだけの目的なら、此方は大いに安心だけれど、」
と語る間も無く女王は、人が悉(ことごと)く眠ったと見てか、又抜き足に篝(かがり)の傍まで来たが、未だ名澤の推量した様に、泥棒猫の了見とは成らずして、全く夜の寒さに耐える事が出来ず、温まりに来た者と見え、燃え残る篝の火に、落ち散る木の葉など集めて掛け、非常に快(こころよ)さそうに身体を焙(あぶ)り始めた。



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