巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou18

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2020.4.29


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        第十八回 芽蘭夫人の思い

 一行無事に海路(カイロ)府に着いたのは、仏国(フランス)を出てから七日の後であったが、ここで先ず行く先の道を相談すると、遠征の目的は可駐無(カーツウム)《スーダンのハルツーム》から先に在る。可駐無(カーツウム)まではナイルの大河を遡ることも可能であるが、それよりは紅海を船に乗りスアキムに着き、スアキムから上陸して、バアバア村に至り、此の村から初めてナイルの河に入るのが好いだろうと云うことに決した。

 尤も荷物の大な物は携えて行くことが不便なので、それ等は河船で直接に可駐無(カーツウム)へ送る事とし、相談がここに定まったので、必要の品々を買い調(ととの)い、又一方には領事館等に就いて、及ぶ丈け紹介の手紙を請い受け、更に又確かな通弁人《通訳》を雇い入れようとすると、幸い是まで度々遠征に従って、蛮地に深く入り込んだことのある、亜拉比(アラビア)人の亜利及び阿馬(オーマア)と云う二人の者が居るのを見出す事が出来たので、この二人を雇い入れた。

 それや是やでカイロ府に又も一週間を費やした後、一同は衣類その他の小荷物だけを携えて、蘇西(スエズ)から船に乗ろうと、その土地まで行ったが、ここで非常に気の毒なのは、彼の従者與助である。彼はマホメット、ガデルと改名し荷物の札にまでその名を記して置いた為め、蘇西(スエズ)の運送社で自分の荷物を受け取ろうとすると、既に本物のマホメット、ガデルと云う亜拉比(アラビア)人が、その荷物を受け取って去ったとの事である。

 さては前から物を盗む癖が多いと聞く、亜拉比(アラビア)人に盗まれたかと、與助は非常に立腹して、会社の不注意を攻め弁償せよと迫ったけれども、会社では仏国(フランス)人にマホメットなどと云う名前がある筈が無いので、会社の落ち度では無い。

 偽名をした当人の落ち度であると云い、一言に跳ね附けたので、與助は取り付く所も無く、この上は海路(カイロ)府で買い調(ととの)えたその服一枚で万里の旅をしなければならないかと、涙ぐんで萎(しお)れ込むのを一同が慰めて、カーツウムまで行けば何とかして遣ると云い、漸く励まして断念(あきら)めさせた。

 この様にして蘇西(スイズ)から埃及(エジプト)汽船会社の船に乗り、紅海の上を南に向かい出帆し、一同船の中で様々な戯れに身を委ねる中に、一人芽蘭夫人だけは常に船室に閉籠(とじこも)り、遠征探険に就いて様々な書類を読み、何事をか考えて深く思いに沈む体であったが、或時二人の通訳と彼の帆浦女を傍に呼び寄せ、

 「貴方がたは、孰(いず)れも蛮地の事には詳しい人達ですが、若し欧羅巴(ヨーロッパ)の人が、唯だ一人で蛮地に取り残されたならば、長く殺されずに居る事が出来ましょうか。」
と問うた。
 問の心は察し難きも、亜利は進み出て、
 「そうですね、沢山の賄賂でも贈って、蛮民の機嫌を取れば兎に角、左も無ければ幾日も経たない中に殺されましょう。」

 「たとえ実際に殺されなくても、殺された者と見做すでしょうネエ。」
と宛(あたか)も独語(ひとりごと)の様に言い、一同が何とも返事する事が出来ないのを見て又語を継ぎ、
 「既に李敏敦(リビングストン)翁も、殺されたと見做されたその後で、生きて居ると分かりました。又独逸の母牙児(ボゲル)も殺されたと云う報告が、二度まで届きましたけれど、二度とも間違いで、本当に殺されたのはその後でした。その様な訳なので、殺されたと云う報告も、容易に信ずる訳に行くまいと思われますが、貴方がたは左様な実例を知りませんか。」

 誰一人充分に返事をする事が出来なかったので、夫人は更に何事をか云おうとする様子であったが、この上に言うのも無益と知った様子で、黙然として一同を退けた。この後で平洲と茂林は通訳亜利からこの話を聞き、二人とも夫人が何の意でこの様な取り留めも無い事を問うたのだろうかと怪しんだが、やがて平洲は、

 「アア分かった、夫人は事に由ると、所夫(おっと)芽蘭男爵が猶(ま)だ生きて居るのではないかと思って居るのだ。」
 茂林もなるほどと思って暫し考え、
 「そうだな、その様に思うのも無理は無いが、気の毒ながら芽蘭男爵ばかりは、生きて居る気遣いは無しだ。死んだ報告が届いて三年の余になるけれど、今以て取り消しの報告は無い、母牙耳(ボゲル)でも誰でも、一年と経ない中に取り消しの報告が有ったぢゃ無いか。」

 「そうサ、半年か一年なら兎に角、唯だ一人で三年間も鬼域で生きて居る事が何うして出来る者か。」
 「アア、夫人は男まさりと云われても、流石に女だけに、その様な空想も起こるのだろう。」
と云い、素より気にも留めずに止んだが、同じその日の中に船は亜拉比(アラビア)の港ジッダに着いたので、二人とも景色などに心紛れ、夫人がこの様な問を発したと云う事すら全く忘れ尽くした。



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