巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou45

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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         第四十五回 ゲラン男爵は生きて居る

 その筋の報告で、死んだ人と定まっていた芽蘭(ゲラン)男爵が、まだ死なずに蛮地に在るとは意外千万の事なので、平洲も茂林も何とも返事をする事が出来なかった。茫然として控えていると、芽蘭男爵夫人は又も語を継ぎ、
 「こう成って見れば、私は確乎(れっき)とした夫の有る身、自分で自分の身が自由にならず、夫男爵が居る所までは尋ねて行かなければならない事は勿論ですが、唯だ貴方がたお二人には、今更申し訳が有りません。

 確かに夫は死んだ者と思い、その墓参りの為と思えばこそ、貴方がたに同行を勧め、様々の約束も致しましたが、今から見れば貴方方を欺いて、ここ迄無駄に見送って貰ったのも同然で、実に貴方方へ理由も無しに幾千里の旅をさせ、無益な艱難辛苦をさせた事と為りました。

 何とも申し訳は有りませんが、全くの間違いから出た事ですので、是ばかりは幾重にもお許しを願わなければなりません。」
と涙ながらの目許に、真実後悔の色見えて、非常に語り難(に)くそうに話し出した。平洲にせよ、茂林にせよ、今まで夫人が心を一方に傾けて、我を疎んずるに至った事と思えばこそ、腹も立ち恨みもしたけれど、事情は全くそうでは無く、二人の間に何の甲乙をも附けないことは以前の通りで、唯だその夫がまだ生き存(なが)らえていることが分かった為に、二人へ一様に疎くした者と合点が行っては、何で恨み怒ることが出来よう。

 嫉妬の念は忽(たちま)ち消えて、却(かえ)って無量の憐れみを生じ、夫人の心中を唯だ気の毒と思うばかり。抑(そもそ)も嫉妬の念は忽ち消えて、却(かえ)って無量の憐れみを生じ、夫人の心中を唯だ気の毒と思うばかり。抑(そもそ)も嫉妬とは非常に我がままな心で、夫人の心が我が競争者に傾いたと思った時は、火のように燃え熾(さか)ったが、之に反して、競争者に傾いたのでは無く、力に及ばない深い勤めが生じた為め、余所余所しく成った事が分かっては、扨(さ)てはその勤めが突然に現れ出ることが無ければ、夫人の心は競争者の方よりも、我が方へ傾き来たのに違いないと、双方ともにこの様に思って自ずから慰め、再び相手を恨まなくなった。

 それで茂林も平洲も、夫人の言葉を聞き、寧(むし)ろ今まで互いに疑い、互いに恨んだことが恥ずかしく、忽(たちま)ち元の通り兄弟も及ばない程の親しい仲とは成った。そうとは云え、今は目の前に非常な難しい大問題が起こった事なので、互いに心を明かし合う暇も無く、更に暫(しばら)くは無言であったが、茂林は感情に耐えられず震える声で、

 「イヤ夫人、芽蘭(ゲラン)男爵がまだ生存(いきながら)えて居るとは、我々の身に取っては、是ほど喜ばしい事は有りません。素より貴女の身には男爵の妻と云う勤めが有って、御自分の自由には出来ず、吾々二人にここを限りに分かれると仰有るのは無理も有りません。其の心中は幾重にもお察し申しますが、それにしても、我々が果たして是れ限り同行を止め、帰国するかどうかは、暫(しばら)く後の相談とし、差し当たり伺いますのは、男爵が生き存(ながら)えて居ると云う其の噂は、確かに拠り所でも有る事ですか。」

 夫人も心を取り直し、
 「ハイ、唯今夫男爵が何うして居るか、それは素より分かりませんが、兎に角夫が死んだと云う其の筋の報告が、全くの過ちで有ると云う事は、確かな証拠が上がりました。」

と云い、是から夫人の明らかに説明する事を聞くと、其の筋の報告は芽蘭男爵が千八百七十一年の十月に、ボンゴーと云う土地で死し、その土地に埋葬せられたと云うところに在る。夫人が目指して行こうとしたのは、即ち其のボンゴーの地方である。然かるに其の翌年の一月、ボンゴーから更に先に当たるモンパトと云う土地まで入り込んだ象牙商人の手代、黒人名澤と云う者が、確かに芽蘭男爵と云う一人のヨーロッパ人が数名の従者を連れモンパト地方に来たのを見、親しく其の人と二夜ほど同じ天幕(テント)の中に寐(ね)たと云う。

 抑(そもそ)も此の黒人名澤は、白人が行くことが出来ないアフリカの内地に生まれ、幼い頃、他の種族との戦争の為め、捕虜と為って、先から先へ売り渡され、終にハルツウムに来て住み、成長するに及んで、幾度も遠征隊に通訳又は従者として雇われていた者で、極めて正直な為、政庁より士官同様の地位を授かり、今は退役と為って象牙商人を助けつつ有る者で、此の頃に至り、久し振りにモンパト地方からこのハルツウムに帰って来て、芽蘭男爵と称する遠征家の人物を聞くと我が夫に相違は無く、更に名澤は芽蘭男爵から、ハルツウムで発送して呉れと言って、夫人に宛てた一通の手紙をも預かって居た。

 途中で雨に逢い、日に晒された為め、鉛筆で認めた表封は、殆ど読み難いまでに消えていたが、中は確かに男爵の走り書きで、その文には、夫人へ暇(いとま)も告げずに巴里(パリ)を出発した情無(すげな)さを謝し、全く血気の盛んな間に、アフリカの見納めを為す積りで来たのに、進めば進むほど更に先を見度い心が起こり、その心に迫られて終にヨーロッパ人が曾(かつて)て来た事も無い、土俗モンパトと云う土地まで来た。

 此の上僅かな辛抱で南の方、遙青山(ブリウ、マウンテン)にまで行ける。遙青山(ブリウ、マウンテン)とは今までアフリカを探検する人が、遥か天崖に一髪の青く聳える山が有るのを望み見て名附けた者で、北から行く人も南から行く人も、その山まで行った事が無い。山に至るまでの地方に割拠する蛮族は、どれも剽悍(ひょうかん)《荒ら荒らしく強い事》にして人の肉を食(くら)う悪風があるので、到底近づく事が出来ない所と見做されているが、若し幸いにして、此の遙青山(ブリウ、マウンテン)を越えることが出来れば、山の南の麓は必ずビクトリア湖と云う湖水の北端に接する事を見出す事が出来るはずだ。

 そうすれば湖水に浮かび、更に南進して彼の李敏敦(リビングストン)が、南から目指して進んだ丹鵞湖(タンガニーカ)湖畔にも到ることは難かしくない。是だけの所を見窮めれば、地理学の上に空前絶後の大利益を与える者なので、ここまで来て、最早や後へは引き返し難い云々との意を認(したた)めて有った。

 此の手紙で見れば、芽蘭男爵は死んだと報告せられた、ボンゴーの地方を無事に通過し、南へ南へと進んだ事は確かで、その後年を経たが、未だ南の方残日坡(ザンジバー)から何の便りも無いのを見れば、今もまだ絶域に生き存(ながら)えて居るのに違いないと云うことだ。実に是れは聞くも恐ろしい話である。

 芽蘭夫人がこの様に語り終るのを待ち、平洲は熱心に、
 「ハイ分かりました。併し今現に男爵の居る土地は分から無いのですね。」
 「ハイ分からなくても、黒人の中を珍しい白人が通れば、黒人が必ず記憶して居ますので、それからそれへと問うて行けば、必ず分かります。」
 「それで貴女は何うしても夫男爵に逢うまで、絶域へ入り込むのですか。」
 「ハイ」
と答える声は低いが、冒し難いほど堅固な決心は其の語調に明かである。

 「唯だ一人でお進み成さるのですか。」
 「帆浦女と二人の通訳と、それに今云う黒人名澤を雇い、此の人達にきちんとした従者を集めさせ、此の土地で遠征隊を組み立てて行くのです。」
 「では吾々は何う致します。」

 「貴方がたは到底(とて)も行く事は出来ません。」
 茂林は傍(そば)から情け無い音調で、
 「何故に私共に限り、随行する事は出来ませんか。エ夫人、何故に。」
と熱心に問掛けた。



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