巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou55

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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        第五十五回 憐れな母象

 象は鼻に軽々と老兵名澤を捲き上げて、暫(しばら)く空中に弄(もてあそ)んで之を足許に落とした。若し通常の人だったなら其の捲き上げられた時、早くも失心し、気絶し、その落とされたと共に死し、象の足で踏み附けられるまで存(いきながら)える事は無い。

 唯だ夫れ名澤は黒人中の最も豪勇なヂンカ族の血脈を引き、且つは幼い頃から危険と云う危険を乗り切って来た男なので、この様な場合に臨んでも落ち着いていることは、驚くばかりで、高く空中に捲き上げられて失心もせず、自分の身が地上に降りるや否や、象が持ち上げた片足が、まだ自分の身に落ちて来ない間に、早くも転がって子象の腹の下に隠れ入った。

 此の早業に母象も呆れ返った様子で、静かに子象の周囲を廻り、篤(とく)《じっくり》と様子を見据えた上、徐(おもむろ)に鼻を延ばして名澤を外に引き出しにかかったが、名澤は素早く前に倒れて、その鼻に空を切らせ、再び子象の腹下へ逃げ込んだ。今度は母象も一層の腹立たしさに手加減はしないと思った様子で、前よりは荒々しく名澤を引き出だし、咄嗟の間に縊(し)め付けて空中へ捲き上げた。

 今度こそは助かる事は出来ないだろう。唯その縊附(しめつけ)る力だけでも既に息の根が止まってしまうに違いない。この上地上に投げ附けて踏み蹂(にじ)ったならば、殆ど骨も留めないくらいぐちゃぐちゃになり、砕け果ててしまうに違いないと思われたが、此の時芽蘭夫人が隠れて居る叢(くさむら)の中で、ドンと一発銃音があった。

 弾丸は確かに子象の急所に中(あた)ったと見え、母が人類を弄ぶのを羨ましそうに眺めて、
 「坊やにお呉れ。」
と強請(ねだ)るように構えて居た彼の子象は、鳴き声高くその所に倒れた。

 この銃音は、老兵名澤の危急を見て、平洲が発射した者で、若し母象を狙っては過って名澤を射る恐れが有るので、唯だ母象の心を他へ転じさせる為め、故(わざ)と子象を射たと言う。此の考えは過またず、母象は驚き周章(あわて)て名澤を投げ捨て、斃れた子象の傍に馳せ寄って、跪(ひざまづ)き、長い鼻で手負いの身体を調べたが、やがて耳の後ろに傷所があるのを見て、己れが胃腑から一種の水を吐き出して之を洗い、更に其の血を止めようとしてか、鼻の一方を傷口に当て、堅く押し附ける様は、真にこの土地の野蛮人より、遥かに智慧の優れた者と認めらる。

 しかしながら手当の甲斐無くして、手負いの命は次第に消え行こうとするのを見るや、母は人の泣くよりもっと悲し気な声で泣き、更に両の目から大粒の涙を垂れる様は、他の獣物(けもの)には全く無い所で、憐れさと言ったら云う言葉も無かった。

 この様にして子象が全く息絶えたと見るや、母は起き上がって又一声悲鳴を放ち、是からは唯だ復讐の一念で当たりを見廻すと、名澤は早や逃げ去って姿が見えない。しかし母象は名澤を当の敵とはせず、彼の外に我が子を射た者があるのを知った様に、再び空中の匂いを嗅ぎ、忽(たちま)ちに一同が隠れて居る方を指し、地をも踏み砕く程の勢いで馳せて来て、早や一同より僅かに三十間《約50m》許りの所に迫った。

 平洲と茂林は象が走り始めた時から、銃を構え、象の身体の上下すると共に、その銃口(つつぐち)を上げ下げして狙って居たが、ここで最も射頃の所と思ったか、一斉に発射すると、是は狙いも過またず、一発急所を射留める事が出来て、象はその所に斃れた。

 しかしながら象の死に際には、その僅かに残る力を振い、起き上がって暴れ廻る事が度々あると聞いて居たので、更に念の為と言って、その倒れた姿の急所を狙い、又一発射出そうとするのを、今まで生きた色も無く茂林の背後に震えて居た下僕與助も、此の時は出て来て、
 「私に射させて下さい。」
と云い、共々に撃ったが、象は全く事切れた後で、その肥太った身体から夥しい鮮血が流れ出て、四辺(あたり)に血の池を作っただけだった。

 既に象が倒れたと見るや、先に逃げ去っていた原住民等は、銘々手に鎌の様な物を持って、逃げ去った時よりももっと早足に馳せ集まり、その皮を剝ぎ、先に争ってその肉を切り取ろうとした。独り與助はしっかりと象の牙に取り縋(すが)り、

 「サア肉は遣るから、誰か此の牙を抜き取って呉れ、誰か、コレ。」
と叫び立ったけれど、誰一人言葉に従う者は無い。この様な間にも最も不思議だった事は、象が倒れたのと共に、遥かに四方の天際に、豆粒ほどの黒い点が現れ、その点は次第に加わって、此方に向けて近づくのを見ると、是れは大鷲の一種で、天の何処に棲んでいるのかは知らないが、眼力の鋭いことには、五里十里(20km40km)の先をも見、地上に獣が倒れたと見れば、その肉を分け食らおうとする為め、遥々と飛んで来るのだ。

 見る中に豆粒は、後から後からと大きく成り、果ては羽音の凄まじい荒鳥として姿を現わし、象の死骸の上に群れ集まった。



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