巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou56

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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        第五十六回 芽蘭(ゲラン)夫人の憂鬱

 象の死肉を食らおうとして、四方の空から集まった大鷲は、素より鳥の中の王にして、人と闘う程の勇気がある。時としては人の命を奪うなどの場合も有り、危険でない事は無いが、銃器を持っているヨーロッパ人に取っては、それ程恐ろしい事も無い。それに危険な象狩りに比べては、気に留めるに足らないので、一同はその近寄るのを待ち、狙いを定めて之を射ると、一発で死ぬのは稀で、傷を負いそまま飛び去るのも有り。傷に怒って猛り狂い、人を掴かもうと飛び掛かるものも有るが、飛び掛かる者は大抵二発目で射留める事が出来た。

 凡そ半時間ばかりで八羽を射殺したが、後ほどそれらを原住民の人夫等に與えると、彼等は今まで例の無いほど沢山の獲物だと言って非常に喜び。もっと此の人々を獲物の多い所に案内しようと、我先に一同を道びいて進んだが、此處から又一里ほど行った青々とした広い草原に出た。

 此の邊の草は高くて三尺(90cm)から四尺(1.2m)に及び、馬の腹を没するものも有り、原の中程に一条の小川も有って、休息に最も好い所なので馬から降り、草の低い所を選んで、一同携えて来た糧(かて)を出し、中食に取り掛かったが、其の漸く終わる頃、一同の乗って来た馬が、急に耳を立てて、何やら遠い物音を聞こうとする様に首を上げ、孰(いず)れも同じ方角を眺め初めたので、茂林は第一に此の有様に気附き、

 「何だか変だよ。馬などは天然の本能に由り、人より先に危険を知る者だが、何か大なる危険が押し寄せて来るのでは無いだろうか。」
と言った。 一同は驚いて、馬と同じ方を眺めたが、向こうの方は高くなっていて、その先を見る事が出来ない。更に耳を澄まして聞くと、気の所為(せい)だろうか、遥か彼方から大波か地響きか、異様な物音が来るように感じられたのが、はっきりとは聞き分ける事が出来なかった。

 その中に馬は恐ろしさに我慢が出来ないと言う様に身を震わせ、果ては一散に逃げ出したので、愈々尋常(ただごと)では無いと、一同立ち上がった丁度その時、前から思い思いに先の方へ進んで居た案内者の原住民たちが、足を限りに駆けて来て、何事なるかを知らせもせずに、逃げ去ろうとする。

 何しろ気に掛かって仕方がないので、老兵名澤をしてその中の二、三を呼び留めて聞かせると、一人は「象の群れ」と答えたまま走り去り、一人は「二十匹ほど」と云い、一人は「」三百匹以上」と云った。物の数を詳しくは算(かぞ)える事が出来ない原住民の言葉なので、その何方(どちら)なのかは分からなかった。

 どちらにしろ象の一群れが、此方を指して推し寄せつつ有る事は確かで、一同その過ぎる道に横たわり、又はその目に触れるに於いては、唯一踏みに踏み砕かれる恐れが有る。どこかに逃げるより外無しとは云え、乗る馬が既に逃げ去った後に在って、此の草深い所を争(いか)にして逃げ去るべきだろうか。

 現地住民の様に疾走する事は、婦人を連れて居る此の隊には到底出来る事では無い。たとえ逃げても、草木を物ともせずに追って来る象の群れより早い事は望み難い所なので、追附かれることは確実だ。原住民すらも既に逃げることの無益である事を知り、高い老樹に攀(よ)じ登って、其の梢に上る者も有る。

 一同は途方に暮れて唯だ顔を見合わせる間に、浪の様に遠くに聞こえていた足音は次第に近づき、早や僅かに数丁の先に聞こえて来た。素より一頭にして三百貫《約1130kg》、500貫《1600kg》の重さ有る野獣、群れを為して先を争って来る者なれば、其の足音が地に響き、谷に轟(とどろい)て振動するのも怪しむに足り無い。

 今まで木の陰などに眠って居た水牛、野牛などは,此の響きに驚いて慌(あわ)て惑い、呻吟(うめき)の声を発して一散に逃げ去ったので、梢に留まって居た鳥までも、悲鳴を揚げて散々(ちりじ)りに飛び立った。平洲も茂林もここに至っては思案も出て来ない。死も生も唯だ芽蘭夫人の一存に従がおうとする様に、夫人の顔を見詰めると、夫人のみは最落ち着き、

 「逃げる所が有りません。運を天に任せ、ここに隠れて居るしか有りません。」
と声も震はずに言い切るのは、既に死ぬ覚悟を定めたものと思われる。
 実に夫人は、ハルツームで、我が夫がまだ生きて蛮地に捕らわれて居るとの心を起こしてからは、以前の様に快活な気風は無く、何事にも沈黙を守って陰気に傾き、危険に臨んでは、助かろうとするよりは、寧ろ死ぬことを願って居るのではないかと疑われることが多い。

 是れは或いは夫を気遣う余り、心が自ずと沈み込んだ為でも有るだろうが、それよりは夫ある身として、二人の男子と共に旅するのを、心苦しく思っているからなのだ。それも通例の道連れでは無く、我が為には死をも厭わないと決心している人々である。この様な道連れに守護せられて、人無き国に踏み入る事は、女の道に叶って居るのだろうか。今は我が心が何方(どちら)にも傾かず、夫に対し少しも気の咎める所は無いとは云え、二人の勇気、二人の気象には感動ずることばかり。明日にも我が心が、知らず知らず二人の一方に傾くかも知れない。

 その様な事が有っては、たとえ身体のみは清しと雖も、心は既に女の道を踏み迷ふ者なので、生き延びてその様な境涯に落ち入るより、運に任せて心の清き今の間に、清浄無垢の女として、死んだ方が夫に対する貞節では無いだろうか。今逃げて助かるとも、この様な危険は是を終わりとするものでは無い。

 進むに従い更に逃れ難い危険も有るだろう。或いは蛮地の熱病に罹り、幾日幾夜苦しんで死なないとも云い難い。何事も運で在るので、此の所で象の足に踏み躙(にじ)られ,一思いに死んだ方が、如何ほど幸いである事か分からないと、少しの間にも以前から胸に蟠(わだかま)る考えが浮かんで来て、微懼(びく)ともせずに控えて居ると、早や象の群れは、山が頽(くず)れる有様で、此の広場へ崩(なだ)れ込んで来た。



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