巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou58

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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         第五十八回 怒る象

 此のままに捨てて置いたなら樹は間もなく二頭の象に倒されて、上に居る黒人は一踏に踏み殺されることは必定である。たとえ救う方法が無いとしても、人一人見殺しに出来ることか。
 然しながら象が熱心に樹を揺(うごか)すのを見て、今こそは逃げ時だと思った。臆病な與助を第一に逃げ出すと、名澤の連れた黒人も逃げ、寺森医師すらも踏み留まる事が出来なかった。周章(あわて)惑って走り出すと、今以て寺森を充分には思切る事が出来ない彼の帆浦女も、
 「死なば貴方と共に死にます。」
と叫び、一歩も後れず走り去った。

 後には夫人と平洲、茂林の外に老兵名澤、都合四人だけ残ったので、平洲と茂林は夫人に向かい、名澤を引き連れて暫(しばら)く退いてくださいと云うと、夫人は寧ろ此の所に死のうと思って、運を天に任せた事なので、更に其の意に従がおうとはせず、

 「イエ私が共に居れば、貴方がたも却ってご自分の身を大切に防ぎます。」
と言い切ったので二人は心の中に嬉しく、夫人と共にならば死も何で厭うことがあるだろうと度胸を据え、更に名澤に向かい、早く行って今逃げ去った人々を保護せよと命ずると、彼は言い争う言葉も無く、早速に立ち去って後は唯だ三人となった。

 茂林は鉄砲を取り出して、
 「あの7象を射殺すより外仕方が無い。射殺すれば樹の上の黒人も助かり我々も助かるのだ。」
と云う。平洲は腰の弾を数えて、
 「それはそうだが、我々は既に先刻の大鷲を射た為に、弾が残り少なくなった。弾が尽きては大変だから、一発で射殺する積りで充分狙いを定めなければならない。」

 この様に云って、夫人を中にし、叢(くさむら)の外に幾間(5、6m)か進み出て、狙いを定めて発射すると、両人とも日頃百発百中の熟練者ではあるが、先刻より心が非常に乱れていた為か、弾は急所を外れた。
 二頭とも傷を負い、脊(せな)から鮮血が流れ出たが二頭は少しも感じない様子で、唯だ益々怒れる声を発し、一層荒くその樹を遥(うごか)すばかり。

  二人は後に唯だ二発宛(づつ)の弾を残すだけと為ったけれど、惜しむべき場合では無いので、又も銃を揃えて溌(はな)つと、樹に鼻を捲いていた一頭は胸を射られて忽ち倒れたが、牙を根に挿している一頭は、唯だ傷を増し怒りを増しただけで、一声高く叫び、必死の力を出して居ると見え、樹は忽ち根こぎにせられ、凄まじき音と共に倒れたれば、梢に隠居(かくれ)ていた黒人は、幾間《数m》の先に投出された。

 この様な場合にもまだ勇気があり、起上がって逃げ去ろうとするのを、象は一走りに走り寄って踏み倒し、四方(あたり)の山に響くような恨みの声を高く揚げて、骨も分からないまでに寸断寸断(じたずた)に踏み躙(にじ)った。その様の無惨な事は言う言葉も無い。

 この上は三人の方に向かって襲って来ることは必定である。平洲も茂林もこの様に思って、掛け替えの無い最後の一発を銃に罩(込)めると、象は此方を詰(きっ)と睨み、先ず其の鼻を廻して身体中の傷を撫で、傷から出る血を受けて、我が目の前に持って来て、赤く染まった鼻の先を見て、傷の大小を調べる様子は、実に驚く可き程の知恵と云うことが出来る。

 やがて鼻の尖(さき)に一方ならぬ血が付いたのを見るや、彼は全く血迷った様に、暴れ狂って此方を指して走って来た。ここだと平洲、茂林は又一斉に打ち出すと、悲しいことに最後の弾も唯だ傷の数を加えただけで急所を外し、全く踏み殺される一方とはなった。

 唯だ僅かに一縷の望みを繋ぐのは、象が間近に押し寄せ、スハ飛び掛かろうとする一髪の所で、素早く身を反(かわ)して遣り過すだけであるが、この様な手段が果たして功あるや否やは知らない。両人がこの様に思う間に、象は天地を踏み鳴らして走って来る。その様子の恐ろしいことは云う言葉も無く、身を反そうと考えていた両人(二人)の目には、象の身体は幾丈(いくじょう)《十数m》の間に塞がった様に見え、身を反す余地も無い。
 
 全く踏み殺されるしか方法が無いので、是までと左右から夫人の手を堅く握り、
 「それならばと互いに最後の一言を交し、目を閉じて死を待つと、象の鼻息は幾間《数m》の先から熱く一同の顔に掛かり、傷口から迸(ほとば)しる血も飛び散って、身体に掛かるかと思われる。是も唯だ瞬きする程の間にで、忽ち象は今一跳ねで一同を跳ね倒す所まで来たが、此の時岩石の地に落る様な地響きの物音があった。

 忽ち何事も停止したように見えたので、死を待ったる三人は殆ど早や既に冥途に入ったかと疑い、徐々(おもむろ)に眼を開いて見ると、これは如何したことか、彼の象は半間《数m》とは離れない程の間近まで来て、横に倒れて死んで居た。何人かが横合いから射殺したのではないだろうかと思われたがそうでは無かった。

 実は身に六発の弾を受け、滾々(こんこん)と血が流れ出た為め、血が尽きると共に既に力も尽きたけれど、唯だ怒りの一心で身を支え、ここまでは走って来たものなのだ。若し彼にして始めから静かに身を休めていたならば、まだ幾時間をも生き延び、自然に衰えて行く可き所であったが、必死に暴れて狂った為め、ここに至って全く魂が尽き、力尽きて頓死したものなのだ。

 三人は実に唯だ半間の違いで、死する命が助かった者と云うべきだ。



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