巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou60

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第六十回 名澤に助けられた與助

 身体に喰い入った数多くの蟻を取り除くには、唯だ水中に入る外無しとか云う。それで彼の老兵名澤は與助を抱いたまま小川に入り、水の中で衣類を脱(ぬが)せると、背にも腹にも腰や足の辺りにも、既に衣類を喰い破って進み入った蟻が、点々と喰い入って居るのを見た。與助が噛み殺されると叫んで、非常に異様な身振りをしたのも怪しむに足りない。

 しかしながら幸いにして、その蟻を水で悉(ことごと)く洗い落としたので、先づ別条無く終わったが、何さま噛まれた所の痛みに耐えられないと云い、非常に不機嫌なので、一同は仕方が無く原住民の人夫に、先に殺した彼の象の牙を取らせ、之を與助に与えると、象牙の効き目は著しく、ホクホク笑う程となった。

 其の中に日も暮れ掛ったので、一同は早速森林から引き揚げ、途中に一泊して、翌日の午後、元の「レツク」まで引き上げたが、留守居として残った通訳阿馬(オマー)の働きで、人足なども大方雇い集め、愈々(いよいよ)「絶域」と云われる、アフリカ内地に分け入る準備も略ぼ整って居た。

 是から三日を経て、千八百七十三年五月十四日、朝未明に隊を揃えて此の所を出発したが、是れは実に生きて帰るか帰らないか分からない命掛けの旅行である。同勢は凡そ三百五十人で、名澤の率いる兵士の中、二十五人が先導として真っ先に進み、次は此の一行の主人である芽蘭夫人の一同とし、其の次は一行の進むのを励ます為の音楽隊とし、次に輜重(しちょう)《》部、次に人夫、最後には人夫等の逃げ去ることを防ぐ為め、兵士の残り数十人、是れは即ち殿(しんがり)で総勢勇ましく出発した。

 一行の中では茂林を兵事の長とし、寺森を輜重の長とし、平洲を記録の長と為し、通訳二人を人足の長として、更に夫々の下役を設け、芽蘭夫人を総大将に仰ぐなど、何一つ行き届かない所は無い。

 目指して行く道の順序を云えば、今一同が出発するのは陳加地方の南端で、未だ赤道からは数度の北に在る。是から先は地図にも記して無く、名も知れない幾個の小部落がある。それ等を過ぎて盆郷(ボンゴー)地方に入り、次は夫人の夫芽蘭男爵が捕らわれて居るに違いないと想われる門鳩(モンパト)地方である。

 その先は未定であるが、門鳩(モンパト)地方は、今まで文明国人が入り込んだ事すら無い所で、無事にその地へ達する事さえ、非常に難しい所なので、達した上で無事に生きて帰るのは、又一層の困難だとは口にこそ出さなかったが、夫人を初め平洲、茂林等の心の底には覚悟して居る所に違いない。

 盆郷(ボンザー)地方からモンパト地方に至る一帯の人種を、昔から「ニヤム、ニヤム」と総称し、人喰い人種であろうと言伝えられているが、其の事が真実であるか否かであるかすら見極めた人は無い。此の一行が良く其の様をまで見届ける事が出来れば、誠に千古の名誉と云うことになる。

 何しろ暑い所なので、当分の中一行は午前五時に発し、六時間旅行して、同じく十一時に行を止める事とした。十一時から午後の四時頃迄は、暑い事と言ったら並大抵では無く、原住民すらも外に出たら焦げ死ぬ恐れがある。況(ま)して気候温和の地に生まれた文明人が、如何して旅行する事が出来るだろうか。

 午後の四時から再び旅行する事は出来ない事では無いが、此の辺りは日の出、日没ともに六時頃で、夕方は旅行の出来る時間が甚だ少ない。三百五十の人を動かすには、其の用意にも一時間は掛かる訳なので、四時に支度を初めて六時まで歩んでも、何ほどの道をも進む事が出来ない。却って鋭い夕日に射られて、健康を害する恐れがある。

 若し宵月の頃である為らば、更に四時から夜の十時頃ま旅行する事も難かしくはないので、それまでの所午後を全く休息の時間と為した事は、今まで旅行した人々の経験に従ったことなのだ。

 是から凡そ三週間ほどは何事も無く進み、六月の五日には陳加地方の尽處(はずれ)として知られる「コーデイ」と云う部落に達し、原住民にに多くの贈り物などを與え、其の住居としている小屋幾棟をか借り受けて一泊したが、翌日は毎(いつも)の様に四時頃から支度を初め、五時に此の所を出発し、次なる「オロージ」と云う小部落を目指し、凡そ二哩(マイル)《3.7km》ほども進すむと、何の為にか昨夜泊まりった「コーディ」部落の蛮人数百人が、後ろから怪しげな鳴る物を打ち鳴らし、各々投げ槍其の他の武器を空中に振り閃(ひらめ)かし、鯨波(ときのこえ)を高く揚げて、一散に追って来た。

 昨夜一行の贈り物に喜んだ蛮民等が、今朝打って変わって一行を攻めて来たとは、何の仔細に由る者だろう。不思議で仕方が無かったので、通訳をして彼方の大将に其の故を問わせると、此の一行の中に村の美人二人を盗み去った者がある。穏やかに其の美人を引き渡せば好し、さも無ければ攻め亡(滅)ぼして奪い返すとの主意である。

 まさか此の一行の中に、色黒く唇厚い野蛮美人を盗み去る者が有る筈は無いので、若しや兵士や人夫等の中に、そのような不埒を働いた者があるのかもしれないと、念の為調査すると、初めから賄(まかない)の為雇って来た女の外に、女は一人も居なかったので、それは何かの間違いに違いない答えると、蛮族は中々承知せず、然らば我等の中、十人の代理者を出すので、之に隊中を検査させよと云う。

 何様其の意に応じなければ、事が面倒に立ち到る恐れが有るので、彼等の望むがままに任せると、代理の十人が進んで来て、隊中を隈(くま)無く検べ、美人の姿が見えないのを非常に怪しむ様子であったが、やがて其の中の一人は二人の人足が担いでいる天幕(テント)に目を留め、確かに此の中に包まれて蠢(うごめい)て居ると云う。

 直ちにその天幕を取り下ろして披いて見ると、是はそもそも如何したことか、中から年若い黒女二人、猿轡を喰(は)まされて転がり出て来た。誠に容易ならない不都合なので、茂林は名澤に命じ、蛮人の目の前でその人足をば、各々三十棒づつ鞭打たせようとすると、人足は戦(おのの)いて、決して吾等の仕業では無い。白人の言付けに従ってこの様にしたものだ云う。

 一行の白人中にこの様な事を命ずる者が有るだろうかと、平洲も茂林も呆れて顔を見合わせると、人足両人は與助を指差し、即ち此の人に命ぜられたのだと云った。さては與助奴、此の一行の名誉をも安全をも顧みず、この様な大不都合を働いたのかと、茂林は烈火の如くに怒り、手づから鞭を取り上げて、
 「サア、與助ここへ来い」
と大喝一声に呼び付けた。



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