巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou68

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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      第六十八回 芽蘭夫人の憂鬱病

  馳走の用意整いつつ有りと聞いては、一同早や胸悪い気がせらるるが、中でも帆浦女は何の会釈も無く、
 「此の様な所の食物が食べられますものか。」
と呟き、後をも見ずに王宮を立ち去った。残る人々は何とかして此の饗応を断わらなければと、蜜々(ひそひそ)協議を重ねた上、茂林の考えで此の土地の風習を利用し、王に向かって、

 「吾々一同は心願があって、此の国を旅行する者なので、目的の地に達する迄は、一同隔日に断食をする事に定めて有ります。今日は丁度断食の日取りなので、如何なる珍味をも口に入れることは出来ません。」
と云うと、王は半信半疑の様子だったが、終に頷いて思い止まった。

 一同は虎口を逃れた思いでゼリバに帰り、是からは一散に旅行を急いで、早く此のボンゴー地方を通り抜けようとしたが、一日一日に困難が加わったのは、人足等が此の次には人喰い人種が居ると云う事を懼(おそ)れて、次第次第に逃げ去る一事である。

 ここで逃げ去れば、どこかのゼリバへなりと雇い入れられる事が出来るとの見込みがあるので、一人減り二人減り、今は初めの数に比べれば、五十人ほど少なくなり、残る者たちにしても、初めほどは気も進まない様子なので、或いは給金割り増しの約束を為し、或いは一人を罰して他を懲らすなど様々の手段を施して、漸く旅を続け行く有り様である。

 更に気遣づかわしいことの一条は、芽蘭夫人の身の上である。夫人はハルツームを出発して以来、総ての振る舞いは、その以前ほど引き立たず、何と無く陰気に鬱ぎ勝で、口数なども多くを聞かない有様と為って居たが、此の数日来、一種の緩慢な熱病に罹り、馬に乗るにも耐えられないと云って籠の中に身を入れた。

 医師寺森は職務柄から大いに心配し、アフリカの熱病は一所に少しでも逗留しては、益々重くなるのを常とし、先へ先へと進んで行けば、自ずから転地療養の様な理で、日を経ずして直ることが多いなどと云い、只管(ひたすら)旅行を急いだが、其の為があってか、三日許かりにして、再び馬に乗る事が出来る事とはなったけれど、夫人の様子は総体に沈み込んで、絶えず打ち鬱(ふさ)ぐ容体は、少しも好転しなかった。

 或いは是れは、此のボンゴー地方は曾て芽蘭男爵が死んで葬られたと報告せられた土地なので、其の事を思い出し、男爵の今の身の上を気遣う為では無いかと疑われたが、其の中にサシビミツトース、ナイヨライなどと、原住民が称する土地を過ぎ、七月の十二日にはボンゴー地方が尽きようとする辺りに達した。

 一行の中で、老兵名澤(ナザワ)は、モンバト地方の入り口まで行った事の有る身なので、此の辺の地理を知っている。ボンゴーから「ニヤム、ニヤム」と云う人喰い人種の棲む地方へ入り込む境には、ムバラ、ギヤと称し、直立五百尺(150m)の山がある。

 一行は此の山をソロリソロリ上り初め、其の半腹まで至って、天幕(テント)を張って、一泊する事とはなったが、此の時は丁度満月の夜で、野山一面の景色が、天然の大パノラマを作って、皆を飽きさせない眺めだったので、黒人の外は容易に退いて寝ようともせず、平洲と茂林は天幕の外に水牛の皮を敷き、その上に身を横たえて月を眺めた。

 帆浦女は遥かに後部(しりべ)に当たる谷の近くに行き、独り呟きながら散歩するのは、きっと寺森医師の不実なことを見限って、此の上は意中の人を平洲に定めようか、茂林に定めようかと思案している者に違いない。

 病気が全く直って居ない芽蘭夫人の天幕(テント)だけは、少し静かであったが、夫人も思う事が有って寝る事が出来ないと見え、そっと出て来て、月に描かれる樹の陰などを踏み始めたが、此の時何思ったか医師寺森は、言い度い事が有る様に夫人の傍に進んで来た。

 夫人は目の前に現われた彼の影に驚いて首上げ、物言い度(た)そうな彼れの様子を見て、
 「オヤ寺森さん、何かお話でも有りますか。」
と非常に優しく問い掛けた。

 寺森は暫(しば)し言い澱(よど)んだが、やがて心を定めたと見え、日頃の非常に軽い口調に一種の親切を籠め、
 「ハイ先日来、折りが有ればと思いましても、貴女がお一人の場合は少なく、今夜初めて誰も居ない機会と見届けました故。」
と、言もまだ終わらないうちに、

 「人の前では話されない何か秘密の事ででも。」
 「イヤ私の方には何の秘密も有りませんが、秘密は貴女のお心に有りましょう。ハイ私は其の秘密を伺いに参ったのです。」
 言う所は何うやら薄気味の悪そうにも聞こえるが、其の顔附き言葉附きを見れば、彼が一点の野心も無く、唯だ親切心だけからこの様に云っているのは明らかである。

 夫人も更に薄気味が悪いとは思わず、微(かす)かな笑みを浮かべて、
 「オヤ何も私に秘密などは有りませんよ。」
 「イイエ、夫人、雇い人も同様な私が貴女の秘密を聞こうとは出過ぎた様な訳ですけれど、既に数か月、此の通り共に絶域を旅行して見れば、一行の人々は互いに姉妹か兄弟の様な気がして、他人の事も我が事の様に気遣われます。

 とても郷里のヨーロッパでは十年一緒に住んだとしても、是ほど親しくは成りません。特に私は先年まで、丁度貴女と同じ年頃の妹が一人ありました。それが病の為め死んで以来、私は世に親しむ者も無く、その悲しみを忘れる為め、賭け事などに身を委ねました。それですから貴女を見ても親身の様な気がして、貴女の御心配を知らない顔で見ては居られず、何うか私へ打ち明けて下さいと申すのです。」

 優しい心に感じてか、夫人は手を出して寺森に取らせながら、
 「イヤそれは御尤(もっと)もです。それほどまで私の事を気遣って下さるのは何よりも有難いと思いますが、別に是と云う心配はーーー。」

 「イヤ無い事はは有りません。私を友人としてお話し難ければ、医者と見てお話下さい。医者には何の様な心配を打ち明けても、恥ずかしく無い者と昔から定まって居るのですから。それに医者と云う職務が有れば、他人の心配を聞いたからと云って、それを洩らす様な事は決して致しませんから。」

 「でもお医者に話す様な病気とても有りません。」
 「イヤそうでも有りません。貴女は先日来、緩慢な熱病でーーー。」
 「それはもう直りました。元々土地気候の違いから来た病ですから。」

 寺「イエ土地気候の違いならば、是より以前、ハルツームか、ガゼル河の湿地の辺で起こらなければ成りません。この辺は蛮地とは云え、土地総体が高乾燥で多少の熱病は直る頃です。それなのに貴女の病気が直らないのは、心の中に心配が有って、その心配から出て居る為です。此の様な病気を直すには、人に其の心配を打ち明けて、心の重荷を弛めるより外は有りません。

 若し誰にも打ち明けず、黙って一人で心配して居ては、心配に窘(いぢ)められ、身がだんだんに衰える許りです。」
と云い切ると、此の言葉は全く夫人の胸に応(こた)えたのか、顔に浮かんでいた微(かす)かな笑みも忽ちに消え失せた。



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