ningaikyou69
人外境（にんがいきょう）（明文館書店 発行より）（転載禁止）
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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ページラストへ第六十九回 憂鬱の原因
芽蘭（ゲラン）夫人は寺森医師に心中の秘を見破られた為か、片頬に浮かべた笑みも消えて、非常に驚いた様子である。寺森は夫人の此の様子に一層の力を得た様に、
「ハイ夫人、貴女は実に心配の為め、一寸一寸、御自分の寿命を縮めて居るのです。今の内に其の心配を然るべき人に打ち明けて、幾分でも心の重荷を弛めなければ、貴女のお身は此の旅行の終わるまで続きません。」
と非常に重々しく云ったが、夫人はまだ返事をしない。
其の様子は宛（あたか）も、寧（いっ）そ身体が続かずに、旅行中に死ぬ事を願っているのではないかと疑われた。
「総て其の様な心配は人に打ち明けて話すとか、或いは声を放って泣くとかすれば、大いに神経が弛みまして、幾分か耐（こら）え易くなる者ですが、声にも言葉にも洩らさず、又涙にも洩らさずに独り胸の中に畳んで置けば、一日一日に重くなる許りです。
今貴女の場合では潜々（さめざめ）と泣くにも泣かれず、打ち明ける人とても有りません。始終お傍に居る帆浦女は、人の心配などには見向きもしないアノ通りの気質です。ですから平洲、茂林の両人に打ち明けようにも、貴女の心配が唯の心配とは違いますから、なお更ら両人には打ち明ける事が、出来ないでしょう。」
と夫人の顔色を読み乍ら言い切った。
平洲と云い、茂林と云い、夫人と何の隔ても無い間柄であることは、何人も認める所ではあるが、此の両人にも打ち明け難い心配とは、抑（そもそ）も如何なる心配なのだろう。
夫人は此の語を聞き、それでは何所まで悟られているのだろうと、少し危ぶむ様子で、
「何故、アノ両人（ふたかた）に打ち明けられないとお思い成さる。」
寺森は非常に真面目に、
「ハイ那（あ）の両人は普通の道連れでは無く、属魂（ぞっこん）《心の底から》貴女を恋慕い、それが為に此の旅行を思い立った身分ですから。」
夫人は驚き、
「エエその様な事をあの両方が云いましたか。」
「イエ言いは致しませんが、医を職業とする私の目には、明らかに分かります。サアそう云う訳で有って見れば、両人に打ち明ける事は出来ず、此の両人に打ち明けなければ、私を置いて誰に打ち明けます。
実に昨今貴女の御様子を見れば、誰かに早く心配を打ち明けて、幾分たりともモヤモヤを晴らさなければ、由々しい容体になって行く恐れが有ります。それゆえ私は止むを得ず、差出がましく、この様にお打ち明け為さいと申すのです。私の耳に入る事は誰にも洩れる恐れは有りません。あの両人にも知らせは仕ません。」
と、唯だ夫人の身を大事に思う、親切な一念を以って云ったが、まだ夫人は自分の口からは、打ち明ける事が出来ないのか、
「そう仰有ると、何だか私が両人の愛を、一様に感じ、一つの操を両方に売る様な心でも有る様に聞こえますが、貴方はその様に私をお疑いですか。」
寺森は遽（あわただ）しく、
「飛んでも無い。何うして其の様な事を疑いましょうか。若し貴女が双方の愛を感ずるとか、或いは一方の愛にでも心が動けば、それこそ愛に紛れて何も御心配は成されません。貴女は平洲に向かっても茂林に向かっても、少しの愛も感じないので、実は其の所から種々の心配が出て来るのです。」
此の診察が当たったのか、夫人は少し首を垂れ、何とも自ら言い開く様子が無かった。
「貴女が私へお打ち明け成さる事が出来ないならば、私の方から見て取った丈の事を、ハイ私が貴女の心を読んだままに申して見ましょう。貴女は平洲をも茂林をも、又と無い立派な男、又と無い親切な友人と、其の様には思いますが、友人と云うより外は少しも思わず、御自分の心が一方へ傾くならば兎も角も、どちらへも傾かずに、此のまま両人の間へ、板鋏の有様で旅行すれば、果ては何の様な難儀な場合になるであろうと、一つは先ずそれが御心配です。
イヤ何、是だけが貴女の心配と云う訳では無く、外にも数々は有りますが、是れが心配の緒口（いとぐち）です。」
と云い、再び夫人の顔を篤（とく）《じっくり》と見ると、推察が当たった為からか、夫人はまだ首を垂れ、言い開こうとする景色も見えない。
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