ningaikyou70
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第七十回 寺森医師の指摘
寺森医師の推察が当った為か、夫人が首を垂れて何の返事をも為さないのを見、寺森は又語を継ぎ、
「ハイ、貴女は平洲をも茂林をも、唯だ友人と思う許りで、少しも恋人の様に愛しては居無いのです。
明日でも若し彼等二人が立ち去れば、貴女は大事な道連れを失って淋しいと、この様には思いますが、決して恋人に分かれた様に、恋しいの懐かしいのと云う苦しみは感じません。けれど又彼等二人の心中を察すれば、此の旅行は友人のままでは終わらず、或いは両人とも失望するか、一方だけ失望するか。
若し一方だけ失望すれば、失望した一方は失望しない一方と、生涯敵同士の様な心持になりましょう。幾千萬里艱難を共にした二人の友人が、末には到底この様な有様を免れないかと思えば、貴女は今更後悔に耐えられず、一人で気を揉んで居るのです。併し是だけならば、別に病気と為る程の心配では有りません。
極端な事を云えば、両人が始めから承知の上で覚悟して掛った事ですから、失望に陥ろうと、敵同士に成ろうと、貴女の知った事では無いと、こう云っても済みますが、貴女のお心には是よりもっと深く気に掛かる事が有るのです。」
夫人は殆ど恐る恐る、
「それは何の様な事ですか。」
寺森は思い切り、
「貴女の心は少しも両人へ傾かない代わりに、実は二人の外の一人へ傾いて居るのです。」
「エ、エ、二人の外とは。」
「ハイ二人と此の旅行を共にする事が出来ず、泣く泣くパリへ踏み留まった医学士が有りましょう。その人が踏み留まった為め、私がその代わりに連れられて来たのです。イエ貴女のお心はあの医学士に、ハイあの鳥尾医学士に属して居ます。」
鳥尾の名を聞き夫人は忽ち驚いて、叱り咎める様な語調で、
「寺森さん、それはーーー。」
と言い掛けたが、後に続いて言葉も無く、又達て寺森の言葉を遮ろうとする様子も無いのは、此の推量が満更無根では無い兆(しるし)とも、見ることが出来るので、寺森は更に説明し、
「私は子供の頃から人の心を察するのに妙を得て、父母も此の分では医者にするのが宜ろしかろうと云い、それが為に医業を修めた程ですが、先刻も申す通り、一人の妹に死に分かれた失望から、身持ちをも頽(くずし)ました。
それでも今以て人の心を察する天性は衰えていません。パリを立つ前、貴女のお宅で鳥尾医学士に逢った時、彼れも平洲、寺森と同じく、貴女に心を属して居ると云う事を見抜きました。その次に彼れが停車場へ送って来て、貴女と互いに告別(わかれ)を言い代わした時、貴女の心も知らず知らず彼に傾いて居る事を見て取りました。
イヤサ、貴女は未だその時は御自分で、我が心が彼に傾いて居るとは心附かなかったのです。御自分でそれを知れば、勿論平洲と茂林とを同道して来る筈は有りません。御自分で、心が極めて公平で、三人とも一様に友人だと思ったから平洲と茂林を連れて来たが、愈々旅路と為って、朝な夕な心淋しい場合の多いのに連れ、思い出すのはあの医学士の事なので、さては一緒に来ないアノ医学士が、共に来た両人よりも、我が心へ深く浸み入って居るのかと、気がお付き成さったのです。
総てこの様な思いは、毎日顔を逢わせて居る間には分からず、逢う事が出来ない場合と為って、初めて心の切なさが分かる事が有る者で、日を経るに従い、益々強くなり、医学士の便りを聞けば、歓こぶまいと思っても、心が独りでに嬉しく、本目紳士の手紙を得ても、読まない先から、中に若しあの人の事を書いては無いかと、此の様に思われて、日を経れば経るに従い、路程が進めば進むに連れ、終には争うに争われないほど、貴女の心は確かにあの人の物と為ったのです。」
と寺森医師は宛(あたか)も開いた本でも読むかの様に、明白に言った。
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