ningaikyou73
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第七十三回 本目紳士の寂しさ
此の婦人、本目紳士の久しい情婦に違いないとは、唯是だけの有様で察せられる。紳士は年既に四十に近く、しかも未だ独身なので、この様な関係の女がある事は、一般紳士の風に照らして、深くは怪しむに足り無い。特に女の顔容(かおかたち)は、年は少し老けたとは云え、高貴の夫人と云っても恥ずかしくなく、萬事振る舞に澱みが無いのも、交際に長けた本目紳士の妻として、申し分は無いに違いない。
しかしながら本目紳士は、最早や此の婦人の美に飽きたと云う様子で、別に喜ぶ色も無く、唯だ冷淡に、
「そうだね、随分お待ち遠さまだった。手紙には七時と有ったが、今はもう八時を過ぎた。雑っと一時間の余も待ったのだから。」
と殆ど叱る様に云ったが、女は非常に気軽く、
「二三の紳士が尋ねて来て、なかなか身が抜かれませんでしたもの、ヤット帰して大急ぎで来たのですよ。」
「では先ず用事から聞こうじゃ無いか。此の頃は大層紳士達に大騒ぎをせられると見えるネ。」
と云うのは嫉妬の様にも、亦厭味の様にも聞こえるけれど、全くその様な心では無く、余り待った業腹に、意地悪く真面目にしている者と知られる。
女は何所までも気の軽い質と見え、更に平気で、
「何ですネ貴方は、私が茲へ据われば向こう側の椅子へ移る者ですよ。並んで居ては話の度に首を横向かなければ成りませんから、女に無礼だと云う事を知りませんか。オホホホホ。」
と笑いながらに云えば、紳士も初めて顔を解き、
「ハイ、ハイ、心得ました。」
と笑っている婦人の正面に座を直した。
「サア是で好かろう。用事を聞こう。」
改まって聞かれては、流石に言い難(にく)そうだったが、思い切って、
「今まで度々云った通りですよ。何時までも今のままでは居られませんから、表向き婚礼して、夫婦の披露をしましょうよ。」
紳士は少し驚いた色を示したが、婦人は目覚(めざと)く、
「オヤその様な顔を為さるのは、話の先を折ると云う者です。お厭ならば是切で酒然(さっぱ)りと手を切りましょう。私と貴方の間で、何も恨んだり悲しんだりする事は有りません。何の様な話でも、水入らずに出来ますから、話を決めて綺麗に別れれば好いのです。私も今の中なら外に夫を探す事も出来ますから。」
と打ち解けて云い出した。
紳士が未だ容易には返事する事が出来ないのを見て、
婦「何より婚礼が一番世話無しですよ。私は二十四の年から十年後家《未亡人》でーーー。オヤこう云えば自分の年が分かりますけれど、貴方と親しく成ってから丁度満六年です。今二度目の夫を持っても誰も咎めはしませんよ。唯だ本目夫人では、身分が少し低いなどと評する人は有りませしょうが、夫れでも今なら誰も私を卅歳以上とは思わず、他にも彼是れ云って呉れる紳士が有りますから、貴方も矢張り私を見初め、夢中に成って婚礼した者と、世間では身分の違いを咎めません。
今婚礼せずに、私の色香が衰えてから夫婦の披露をすれば、夫れこそ世間では貴方が数年間私に係り合い、手を切るにも切れ無い場合に成ったから、止むを得ず婚礼したのだと、此の様に笑います。分かれか夫婦に成るか、ここが本当の決め時です。私も女の若い盛りを、六年も貴方の為に費やしましたから、もう表向きの妻に仕て下さいと。こう願う権利が有ります。」
と愛らしい顔に似合わず、非常に重大な問題を露出(むきだ)しに持ち出され、紳士は益々答える事が出来ない。心の底には最早や飽き飽きして、手を切り度い一方ではあるが、この様な話は男が遥かに女より活智(いくじ)が無い者で、そうと言い切る勇気は無い。
「イヤ何も今直ぐに返事などしなくても好いだろう。」
「今直ぐで無ければ、際限が有りません。私も今なら充分身を定める道が有ますからサ。ここ一月経つと又世が何う変わるか知れません。」
「ナニ一月経つ者か。一週間で良い。今日は木曜日、好し好し此の次の木曜日には佶(きつ)と返事をする。」
「では大負けに負けてその日まで待ちましょう。若しその日に返事が無ければ、貴方が承知した者と見て、私から婚礼の日を決めて、世間へ披露して仕舞いますよ。」
と退引(のっぴき)ならない条件を附し、是で相談が一決したので、此の後は兄妹の様に親しく、共々に食事を命じ、雑談に打ち解けて分かれた。
是から七日を経、約束の日になって、婦人は紳士から一通の手紙を得た。文には、
「御身の美しさには深く心を引かれるけれど、まだ独身の自由を失う心が無いので、止むを得ず手切れとし、御身の婚資として封入の公債証書呈上致し候。」
と有った。
封じ込めたる公債は、一年五千法(フラン)《約現在の500万円》の利を生ずる高にして勿体無い程の手切れ金である。婦人は手紙を繰り返してホロリと一滴の涙を滴(こぼ)したが、勿論一滴だけで止み、後はその顔は、公債証書に隠れて見えない。
本目紳士は又是しきの手切れ金を物の数とも思わない資産家なので、此の手紙を出した後で、ホッと安心の息を吐き、
「アア是でやッと手を切った。六年間、イヤそれも初めの中は好かったが、後の一、二年は暴君を頂くよりも辛かった。」
と呟いたが、六年間夫婦同様にしていた者が、全く分かれて、忽(たちま)ち忘れる事が出来る筈は無い。
他に心を紛らすべき事と言って、何も無いので、此の日だけは気楽であったとしても。翌日は唯だ懶(ものう)く、翌々日は何とやら心淋しく、こうして一週間を経た後は、その寂しさが益々募って、世の味気無さに耐えられず、居ても起(た)っても身の置き所が無いまでに到たり、我知らず家を出で、歩むとも無く婦人の家の門口まで行く事前後三回までに及んだ。
道理を知らない人では無いので、三回とも門口で我が身を叱って、引き返えしたが、その三度目には、
「迚(とて)も此のパリに居ては、我慢が仕切れない。寂しさの余り何の様な過ちを仕出かすか分からない。過ちの無いうちに平洲、茂林の後を追い、そうだ、アフリカ国に旅行しよう。」
と云い、奮然として心を決したので、直ちに暇を告げる心で、彼の鳥尾医学士の家を訪ねると、医学士は宛(あたか)も昨日老母に死なれたと云って、殆ど狂気の有様で悲嘆に沈んで居た。本目紳士はその手を取り、
「君、悲しんでも返らない事。少し気を取り直さなければ、君は発狂する。サア僕と一緒に旅行しよう。旅行しよう。」
と促した。
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