ningaikyou78
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第七十八回 勘違いした帆浦女
平洲も茂林も呆れ返って返す言葉さえ出せないで居ると、帆浦女は更に主張し、
「イエ、皆さん、魔雲坐王が白人の女一人だけ寄越せと云うのは、随分意外な言い分ですが、だからと言って、之に従わなければ何の様な事に成るか分かりません。実に一同の為めに危急存亡とやら云う時です。
この様な場合に、詰まらない事を恥ずかしがって、気の附いた事まで言わずに控えているのは却って一同の為に成りません。私は少しも自惚(うぬぼ)れているわけでは有りませんが、昨日の対面中、王は始終私の顔を偸(盗)む様に見て居ました。
(寺森は口の中で王が芽蘭夫人を眺めて居たのを自分のことと思って居る。自惚(うぬぼ)れも是ほど強ければ世話は無いと呟(つぶや)いた。)
イエ勿論私の自惚(うぬぼ)れでは有りません。第一私の様な、アフリカを二度までも旅行した女に、自惚れなどの有ろう筈も有りません。それに又女と云う者は、神経の働きで男の心が分かります。
ある男が此方(こちら)の顔を眺めるのは、唯だ何の気も無く眺めるのか、それとも深く感じて眺めるのか、ハイそれはもう微妙な所で発揮(はっき)りと分かりますが、昨日王が私を眺めたのは、決して何心無くでは有りません。確かに私の神経へ手応えが有りました。」
と更に熱心に述べ来るのを、茂林は、今は腹立たしい程に思い、
「馬鹿な事を仰(おっしゃ)るな。」
と大喝一声に叱り附けると、穏やかな寺森は言い繕(つくろ)い、
「イヤ帆浦女、王の逢いたいと云うのが、貴女でも、将(は)たまた芽蘭夫人でも、その道理は一つです。貴女だからと云って、吾々が何して王の言葉に従われましょう。若しも、貴女の身に間違いが有れば実に一行の不幸です。」
帆浦女は断固として、
「イエそれはそうでしょうが、私はその危ない所を犯します。ハイ犯して王の前へ出ます。今王を怒らせては、一行が何の様な目に遭うか知れません。それを私一人が危うきを犯す為に、王の心を宥(なだ)める事が出来るなら、私は本望です。一行の為ならば、命を捨てることも厭(いと)わないと、初めから覚悟して此の旅へ上ったのです。」
今度は平洲が引き留めて、
「イヤ何と仰っても貴女一人を、王の前へ出す事は出来ません。吾々が一人の貴婦人を保護する事が出来ずに、蛮王の前へ単身で出したと云うことになっては、帰国の後、社会へ言い開きが立ちません。サア一同と共にここを立ち去りましょう。」
と云うと、
貴婦人と云われる嬉しさに、漸く思い返し、一同の後に従って王宮を退き乍らも、何やら王に心を引かれる様に、幾度と無く振り返るのは、唯だ痴絶《甚だしく情欲に迷い理性を失うこと》と云う外無し。
寺森は、帆浦女が日頃以外な事を仕出かす事が多いのを知って居るので、若し又此の度も、何かの間違いを起こしてはならないと、殆ど護衛する様にその手を取った。
茂林は此の間に平洲の耳に細語(ささや)いて、
「若し帆浦女を王の許へ遣れば、王は余り人を馬鹿にすると云って立腹する事は必定だ。それこそこの様にして王の命を拒み、引き退くより危険だ。」
と云えば、平洲も、
「実に其の通りさ。しかし煽動(おだて)さえすれば何方(どっち)へでも動かされる女だから、未だそれだけは始末が好い。」
と評し合いつつ退いたが、この様に王命を拒んだ為に、是から如何なる事が起ころうとするのだろうか。
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