ningaikyou85
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第八十五回 魔雲坐王との会見
百二十名の妻を殺し、残るを臣下に与えようとする。世に是ほどの無惨が有るだろうか。是も畢竟魔雲坐王が、芽蘭(ゲラン)夫人の望みと信じ、夫人を我が妻に迎えようとの心から出る者なので、その所為は実は此方の一行から出たのと同じ。殺す者は王ではあるが、王をしてその殺す意を生じさせたのは此の一行である。
この様な事が若し芽蘭夫人の耳に入ったならば、夫人は事の余りに残酷にして余りに罪深いのに驚き、生涯忘れる事が出来ないほどの悲しみに沈むに違いない。何事があっても、一行は此の死刑を止めなければならない。之を止めるには唯だ魔雲坐王に逢い、死刑を止めよと云う外は無い。
しかしながら魔雲坐王に、この様な事を申し入れたら、彼れは将たして何と言うだろう。必ずやその一途な心を以て、
「然らば後宮の女を殺し尽くさなくても、白人の妹は我が妻と成るか。」
と問返す事必定である。
この様に問われては返すべき言葉は無い。百二十名の命を救くおうとすれば、芽蘭夫人を王の妻とする外は無い。そうとは云え、王をして愈々(いよいよ)後宮の女共を殺させれば、芽蘭夫人の身は最早や助かる道は無い。
王は必ず、
「この様に白女の望み通り、後宮を悉(ことごと)く亡ぼしたからには、最早や白女が我が妻と為る事が出来ない障害は無いだろう。」
と云い出すに違いない。その時に一行は、何の言葉を以って答える事が出来るだろう。
元を糺(ただ)せば茂林が、後宮がある為に、妹を妻に呈することは出来ないと言い抜けた事から起こった者なれど、実にその時は王が数百の妻を失ってまで、一人の白女を得ようとする心を起こすだろうとは、思いも寄らなかったからだ。
誰もが茂林の返答を素晴らしいと思い、是で全く王を断念させることが出来た者とのみ見込んだのだが、王の熱心が一同の思って居たことより強かったのが、運の尽きである。今と為っては、何と悔やんでも取り返しがきかない。
是ほど迄の熱心ならば、此の後如何なる難題を持ち掛けても、遂に王をして芽蘭夫人を諦めさせる事は出来ない。アア何うあっても夫人を、王に奪われる外は無いのか。
この様に思っては平洲も茂林も、最早や全く一行の絶え滅ぶ時が来たかと、絶望する事限り無く、唯だ当惑に顔見合わすだけだったが、やがて二人は言い合せた様に同時に跳ね起きて、
「エエ、何時まで考えて居ても仕方無い。」
と同音に叫んだ。二人の考えは全く一致したのか、共々に短銃を取出し、急がしそうに、その弾丸を検(あらた)めたので、寺森医師は驚いて、
「君等は、自、自、自殺の気か、それならば僕も一緒だ。」
と顔を土より青くして立ち上がった。
茂林は大声で、
「ナニ、勇士は自殺などと云う卑怯な手段は取らない。」
と云い、更に老兵名澤を呼び、至急に兵士中から、二十名だけ最屈強の者を選んで来いと命じた。名澤が退いた後で、平洲は嘆息し、
「こう云う中にも、王が女どもの死刑に着手しては仕方が無い。エエ気の迫(せか)される事だワイ。」
と身を掻きむしる様に云うと、漸(ようや)く二人の意を、此んな考えに違いないと推量する事が出来た様に思い、寺森医師は益々恐ろしそうに、
「君等は王を殺す積りだな、その様な短気は暫く待ち給え。此の土地で王を殺せば、我々一同、王の復讐軍に、嬲(なぶり)殺しに遭(あ)って仕舞う。君、君、短気な事をする前に、暫く待って更にじっくりと考え給え。」
と只管(ひたすら)に気を揉むのも当然のことだ。
この様な所へ老兵名澤は己の外に二十名の最も強い者を選び、之に銃を持たせ、スワと云えば、直ちに戦う事が出来る用意を揃えて出て来た。彼れも寺森と同じく、二人が王を殺す場合に成ったと思って居る様に見えた。茂林は寺森を顧み、
「何にも云わずに僕等に随(つい)て来給え。もう今と為っては、運を天に任せるしか無い。」
と云い、そのまま平洲と共に王宮の方を指して走り出ると、寺森も仕方なく、共に走り、名澤の選んだ二十の兵を従がえて進んだ。」
忽(たちま)ち王宮に達すると、魔雲坐王は百二十の妻を殺して、心に何の悲しみも無いのか、笑顔で出で来て、
「アア御身達は終(つい)に王宮へ入って来る事と為った。今までは我から訪うばかりで、御身等が絶えて来ないのには、我は聊(いささ)か心苦しく思って居た。
今日は我が言葉を疑い、後宮の処分を見届けに来たのだろう。」
と云い満足の色を示した。茂林は遽(あわただ)しく、
「我等は妹から御身への言伝を受けて来たのだ。御身が後宮の女を臣下に贈り、其の中自己の集めた百二十名を死刑に処すと聞いたが、それは事実だろうか。」
王「勿論である。この様な我が心はきっと白女にも通じ、白女も喜んで居るに違いない。我は今まで一時に女百二十人を死刑に処した経験は無い。隣国の王達も、之を聞いたならば、益々此の国を恐れるに違い無い。」
と王は非常な手柄の様に誇ろうとした。
茂「その死刑は既に行ったのか。」
王「否、今から着手する筈で、死刑執行人が、その用意を急ぎつつ有る。」
そうだとすれば、未だ一人も殺されはしないと見える。茂林も平洲もそうと聞き、少し落ち着いた様子なのはどういう意味だろうか。
王は更に一同を次の間に伴い入って行ったが、ここには食事の用意かとも疑がわれる許りに、台の上へ、木を以って造った皿の様な者を幾十と無く並べて有った、王は此の皿を指さし、
「此の数を算(数)えられよ。確かに百二十個ある。此の皿へ一々我が妻の首を盛り、今夜引き出物として御身の妹に贈り、我に最早や一人の妻さえも無い事を承知させる積りである。」
と云う。
この様な恐ろしい言葉は、誰が虚心平易に聞く事が出来ようか。
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