巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou94

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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         第九十四回 魔雲坐王の不満

 小人が與助の肩に上り肉袴(シャツ)の上から噛み付いた其の早業は、実に咄嗟(とっさ)の間である。與助は殆ど何事が起ったのかが分からなかった。肩先の痛みに驚き、
 「痛い、痛い」
と高く叫び、肩を振り立てて背後を向こうとしたが、小人の細い手は早や與助の首に廻り、其の喉を縊(しめ)付けようとしているようだ。

 與助はここに至って、初めて小人が犇(ひし)と我が肩に噛み附いて居るのを知った。以前から人並み外れて人喰人種をを恐れ、野蛮人が白い歯を現すのを見てさえも震い上がる程の與助なので、今己が面(まの)あたりに噛み附かれたと知っては、どうして驚き恐れない事ができようか。噛まれた所の痛みよりも、其の恐ろしさに大声を発し、

 「アレ人喰人種が、人喰人種が、早や肩の所から己の身を喰い始めた。誰か助けて呉れ、助けて呉れ」
と力限りに叫び立てたのは、彼れは全く自分が一切れ一切れに喰い尽くされる者と思ったようだ。

 しかしながら外に助ける人も無い賄(まかな)い所の辺りなので、救いに来る人も無い。與助は耐(こら)へ兼ねて走り出し、小人を振り落とそうと跳ね廻ると、小人は宛(あたか)も荒馬を慣らす様な身振で、與助の背に緊(しっか)と握(つか)まり、勿々(なかなか)落ちる気配は無かった。

 残る二人の小人は、手を打って笑う事並大抵では無く、身体にも似ない白人の弱さよと嘲(あざけ)る様子だ。與助は若し初めの様に、小人に文明風の芸を仕込もうと思うならば、充分此の様に満足すべき筈である。小人は文明国人が馬に乗るのと同じように、馬乗りの芸を実地に行いつつ有る者で、與助自ら馬にも均しく、其の咽喉を縊(し)めつ、弛(ゆる)めつして、巧みに調子を取る小人の技は、文明国の乗馬教師にも出来ない程である。

 此の様を観(み)せ物としたなら、象と角力(すもう)を取らせるより猶を一層の慰みになるに違いない。小人が白人を馬の様に御する芸とは、実に世界無類に違いない。與助は百計之れ尽きて、我が背を以って小人を押し砕こうとする様に仰向け様に摚(どう)と倒れると、小人は身軽く前に廻り、今度は與助が胸の辺りに飛び掛かろうとする権幕である。

 與助は太い身体を引き、必死と為って叫びつつ逃げ出すと、此の時漸く名澤の手下の黒兵数名が、声を聞き附けて馳せて来て、小人を制し止めたが、可哀そうに與助は是から数日の間、一種の熱病と為り、譫言(うわごと)にまで、
 「小人の歯を放して呉れ」
など叫ぶようになった。

 寺森医師の丁寧なる治療で、土門陀(ドモンダ)地方に入り込む頃、漸く回復した。
 何様小人は此の一行に取り、時ならない気晴らしとは為った。寺森医師は小人の体格に依り、生理学上に一大発明の端緒を得たと云って喜び、茂林は画の材料を得たと云い、平洲は此の紀行に一条の花を添える事が出来たなどと語り、小人へは更に十分な贈り物して、愈々(いよいよ)此の所を出発する事と為った。

 ところで、ここに又一つ起こった新問題は、彼の魔雲坐王である。王は芽蘭夫人を早く我が妻に支度いとの一心で、ここ迄は部下の兵を引き従がえて穏やかに随行したけれど、少し此の後を気遣うに至ったと見え、厳重に茂林に向かい、
 「今以て白女の父の踪跡(そうせき)さえも得る事が出来ないのは何故だ。」
と問い出した。

 茂林は寧ろ怒った色を示し、
 「白女の父は御身の弟鐵荊(テツバラ)王の許に逗留し、其の後東北へ向けて出発した事が分かったでは無いか。是に増す踪跡は無い。」
 「否、鐵荊の許を発して後の踪跡である。白女の父は果たして此の辺を通った印しは有るのか。我は限りなく御身に従がって、便々と此の大兵を引き連れて進む事は出来ない。

 兵士の中には既に苦情を唱える者も多いので、今日明日二日の中に、確かに白女の父が何所其処(どこそこ)を通ったと云う証拠を得なければ、白女の父は既に死した者と見做し、吾は門鳩(モンパト)地方へ帰る事とする。」

 茂「帰るのは御身の勝手である。」
 「勿論白女を請い受けて帰る。是れは最初の約束である。生死も知れない父を尋ねて、何所迄も行くのは愚かである。必ず今日明日両日を期限とする。」

 アア今日明日の両日中に白女の父の足跡を突き留めなければ、白女を連れ帰るとは是れは非常な難題である。茂林は必至の思いで、
 「御身は大国の王にも似合わず、詰まらない事を云う者だ。白女の父が土門陀(ドモンダ)地方へ入り込んだ事は、同人に随行して逃げ帰った頓黒(トングロ)外数名が親しく知る所では無いか。

 吾等は其の土門陀(ドモンダ)を指して行きつつ有るので、即ち男爵の足跡を踏んで進むのも同様だ。未だ土門陀(ドモンダ)にも達して居ない中、男爵の足跡無しとは余りに無理な言い方では無いか。」
 此の言葉には仕方無く服従し、
 「然らば土門陀(ドモンダ)までは同行しよう。ドモンダで白女の父の消息が分かるのに違いない。其の時は如何にするのだ。」

 「父、真に活きて居れば其の許まで行き、婚礼の承諾を請う事は約束の通りにするばかりだ。」
と云う。
 芽蘭男爵が真に生き存(ながら)えていても、生き存えて居なくても、どちらにしても困難は同じだ。ドモンダ地方で男爵の消息が絶え、王が即ち白女を連れて帰ろうと云ったならば何とする。

 それとも男爵がどこかに生存していて、王が男爵に迫り、芽蘭夫人を請い受けようとする場合と為ったんならば何とする。右も左も死地ではあるが、逃る事が出来る思案が無いので、其の最後に至った末は、天に任せる外は無いと、度胸を定めて彼の言葉に従い、是から又二日を進み、愈々(いよいよ)後二日でドモンダに入り込むと云う所に着いた。

 そこで魔雲坐王は又も茂林の前に出て、
 「吾等は約束通りドモンダまでは、何しても行く心であるが、部下の兵士が従わないのは如何しようも無い。兵士は何の分捕りも無い、この様な馬鹿馬鹿しい行軍をする事は出来ないと云い、達てと云うなら吾れを殺そうとする勢いである。

 どうしても此の所で白女を吾に与えられよ。そうしたら吾れは部下を宥(なだ)めて白女と共に帰国しよう。左も無ければ此の上、部下を怒らせては、我れのみか御身等の命も危うい。」
と云う。

 其の顔色から察すれば、彼れは充分に決心した者で、若し此方が否を云えば腕力に訴え、一同を殺してでも白女を奪って帰ろうという心と知られる。
 三千の猛兵を引き連れる彼れ魔雲坐王が、この様な決心を起こしたとは、実に負(そむ)くべき道も無い。



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