巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou96

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第九十六回  人喰い人種

 アフリカの内地に人を喰う人種のある事は昔から言い伝えられている所だが、詳しく其の恐ろしい習慣を取り調べた人は無い。唯だ近時になって、ボンゴー地方の近くに、特に人を喰う習慣の有る事を見届けた旅人がある。

 それで其の所を別に人喰の国と綽名し、既に芽蘭(ゲラン)夫人の此の一行なども、その様な危険な土地には成るべく近づかない方が好いと云って、中央を避けて其の東端を通って来た。

 唯だ敵村の小児を盗んで来て、喰おうとする様な二、三の実例を見ただけであるが、今や数千の兵士が、敵の肉を喰える時が近づいたのを喜び、前祝いに歯を一斉に噛み鳴らす様子を見ては、人肉を喰う習慣は必ずしも喰人国だけでは無い。広くアフリカの諸方に広がって居る事を知るに足る。

 唯だ喰人国と綽名される彼の地方は、何でも彼でも人を喰う事が出来る場合さえ有れば、逃がさずに取り喰うと云う程の盛んさであるが、その他の地方は戦争の場合だけに限り、又敵の肉だけに限って喰うと云う違いが有るだけだ。

 一行は今更の様に驚き、魔雲坐王に、
 「戦争は可なれども、人肉を喰うの丈は廃したらどうだ。」
と云うと、
 王「それだけは廃すことは出来ない。昔から兵糧は敵の肉を取れと云う諺さえ有る程で、敵を殺し其の肉を喰って進むのが軍の法である。特に我勇士として敵の肉を喰う事ができなければ、手下の者は直ちに我を侮ることになるだろう。手下も又人肉を喰う事を禁じれば、非常に失望して、軍規は全く失われてしまうだろう。」
と云う。

 実に聞くのさえ恐ろしい事柄なので、平洲も茂林も何とか之を制止する工夫は無いかと空しく頭を悩ますと、魔雲坐は更に寧ろ誇る様な口調で、
 「吾れは何の料理もして居ない死骸に直ちに噛み附き、血の温かさが少しも冷めて居ない中に喰うのが自慢である。

 吾が臣下に吾ほど良い歯を持ち、早く多量に喰う者は僅かに二三あるだけだ。吾れは是非とも其の手際を、親しく白女に見せたいと欲す。其の時こそは白女必ず吾れを真に勇士だと感服するに違いない。」

 アア其の残酷な有様を芽蘭夫人に見せたならば、夫人は恐らくは気絶する迄に驚くにちがいない。平洲、茂林が人を喰う事を制止しようとするのも、一つは夫人の感触を気遣ってのことである。

 茂「否、白人の国にはその様な無惨な習慣は無い。白女は決してその様な事を喜ばない。必ず恐惧(おじおそ)れて身震いをするに違いない。」
 魔雲坐王は之を信ぜず、
 「御身は戯れを云っているに違いない。敵の肉を喰わないで如何して手下が励む事があるだろか。」
と云う。

 これほどまでの深い習慣を改める事は、到底望む事は難しい。強いて芽蘭夫人の命令であると云えば、王丈は之に従がうかも知れないが、無数の部下を如何ともする事は出来ない。既に野蛮の兵に、文明の風を守らせようとして、むざむざ失敗した経験があるので、之も軍気を振わせる為に許して置く外は無い。

 若し固く禁じようとするが為に兵を弱くし、ドモンダ人に敗られる事と為っては、一同の生命まで危うくし、此の遠征の大目的を達する事が出来なくなって滅びることになる訳なので、今は正当防御の為に、此の習慣を見て見ぬ振りに任せて置く一方であると、茂林が厭々ながら思案を定めると、王は更に自説を張り、

 「我方で敵の肉を喰わなければ、徒(いたずら)に味方の肉を敵に喰われる一方である。敵は我が肉を喰って益々強くなるのに、我れ等が敵の肉を喰はずに、身体の力が愈々(いよいよ)弱くなったのでは、到底戦う道は無い。初めから敗れる者と見て、逃げ去ることにならざるを得ない事に成るだろう。」

 実に野蛮人の言葉としては此の上無く道理に叶っている。芽蘭夫人の命を以って、たとえ此方(こちら)だけは制止することができても、敵が此方の肉を喰う事迄は、到底制止する事が出来ない譯なので、強いて此方を止めるのは無惨無惨(むざむざ)敵に喰われよと命じるに同じなので、野蛮人には野蛮人らしく戦わせようと、茂林は遂に一切干渉しない事に決した。

 やがて戦備を整えて此所を発すると、ドモンダ地方へ近づくに従い、野原の草は益々深くなった。敵がもし此の邊まで進み出て、兵を草の中に伏せて、不意に横手から此方(こちら)を襲うことになったら、此方の一軍は唯だ河に推し落とされる一方なので、充分に用心して進んだが、その様な伏兵は全く無かった。

 平洲も茂林もプロイセンーフランス戦争の一方の指揮官として戦った経験がある。軍人的な眼を以って地形を見る事を知っており、是等の様子から敵の手際を考えて見ると、伏兵を以って敵を待つなどと云う兵法は未だ理解する事が出来ない者と見える。

 更に進んで其の国境に行くと、それ程まで高くは無いものの、一種の山脈に成って居て、牙洗(キバライ)川は其の間の谷を潜(くぐ)って出て来ていた。谷の両側には木が生え、岩が立ち、ここに若し一夫が出て守ったならば、万兵も進む方法が無く、木を投げ石を下しても、此方(こちら)を全滅させる事が出来る程であるが、その様な用意が少しも無いのは、極めて戦争に幼稚な人種か、左もなければ当方を境内に引き入れて、一撃に打ち殺す充分な用意が整っているか、必ずや二者の一であるに違いない。

 余りに敵の落ち着いた有様には、却って気味悪い思いが有る。



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