巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou98

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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        第九十八回 悲惨な喰い合い 

 両軍の矢、雨霰(あられ)の様に飛びかう下に座し、歌牌《トランプ》の勝負を争そおうとは、全く命を的の慰みなので、寺森医師は泣き出さん許りの声で、
 「慰みを以って命に代えるとは、余り馬鹿気た考えだ。如何に復讐とは云え君は気でも狂ったのでは無いか。」

 茂林は断固として、
 「余計な言葉は聞くに及ばない。僕は我が権利を主張するのだ。サア、黙って随(つ)いて来たまえ。それとも契約の第四条以下を詳細に読んで聞かそうか。僕は幾度か君に読み聞かされ、今では暗誦して居るが。」

 己れが常に武器とする、彼の契約を以って却って攻め道具に使われるとは最早や返す言葉も無し。しかしながらまだ応じ兼ねて、苦しくも傍に立つ平洲に向かい、
 「平洲君、君の親友両人が、今慰みの為に命を捨てると云う、馬鹿げた事を企てて居るのに、君は早く引き留めて呉れないのか。知らない顔で見て居るのは余り友達甲斐が無いと云う者だ。」

 平洲は非常に真面目に、
 「サアその両人が、日頃から余り馬鹿げた契約を神聖視して居るのには、僕は既に呆れ果てて居るのだから、今更口は出さない。」
 「では君は僕達二人に、野蛮人の矢に射られて死ねと云うのか。」

 「そうは云はないが、君が其の様に矢を恐れる有様が、魔雲坐王に知れたならば、白人総体の名誉に係る。白人は矢の為に神聖な契約を破るほど臆病な者かと、其の様に思われては、何うして此の後我々の威信が維持せられるか。サア命を的にして、茂林君の召喚に応じ給え。」

と非常に異様な道理を附けて、アベコベに遣り込めるので、寺森は全く絶望し、
 「では仕方が無い、先達って茂林君が自ら負けたと泣きを入れて、黒女の小屋から逃げ出した例に做(なら)い、僕も遺憾ながらここで泣きを入れる。茂林君、此の勝負は僕が負けたから許して呉れ給え。」

「愈々(いよいよ)負けたか。」
「アア負けた。歌牌《トランプ》を手にも触れずに負けるのは、遺恨骨髄に徹するけれど、是も君の復讐だから仕方が無い。尋常に其の復讐に服するのだ。」

 茂林は
 「是で先ず気が晴れた。」
と云い非常に楽しそうに打ち笑ったが、此の時魔雲坐の軍中に一際悲しそうな、
 「ナネグーナネグー」
の声が起こり、引き続いて敵軍に、天地も頽(くづ)る程の勝鬨(かちどき)が揚がったので、唯事では無いと驚いて打ち見遣ると、敵軍は弓を止めて雀躍(こおどり)し、容易に其の喜びが止まらない有様なのに引き替え、味方の軍は狼狽する事が並大抵ではなかった。

 茂林は第一に其の原因(もと)を知り、
 「アア魔雲坐王が射られた。射られた。サア寺森君、愈々(いよいよ)君が軍医の役を勤めるべき時が来た。」

 今若し魔雲坐が、是切で死して果てれば、却って一同の幸いなるかも知れない。一度芽蘭(ゲラン)夫人を見初めた彼の情火は、此の後消える時は無く、益々一同に附き纏(まと)って難題ばかり産み出す事が必然なので、天が一同を憐れんで、彼れ魔雲坐王を挫(くじ)いたかと疑われる許かりであるが、此の場合にその様な心は少しも起こらず、

 「ドレ、ドレ」
と云って、寺森も平洲も茂林の指す方を見ると、成るほど魔雲坐王は幾人かの手下に擔(かつ)がれ、隊の背後へ運び去られる所である。三人は少しも猶予せず、寺森が外科の道具を取って来るのを待ちかねて、共々に王の方へ走って行くと、王の傷は手首に敵の矢を受けた者で、それほどまで患(うれ)える程では無かった。

 しかしながら矢の根と矢竹との間を弛(ゆる)くし、一度人の身に立つと、抜いても根だけは肉中に留まる様にしてあり、是は其の根に毒草汁が塗ってある物なので、傷が大きく無くても捨てて置けば、遂には重篤になって来て、一命を奪うにも至るに違いない。

 寺森は直ちに刀を取り出して、王の手首から其の根を掘り取り、傷を洗って繃帯を施すなど、充分に文明流の手当を施すと、王は痛いとも云わず、
 「このような巧みな魔法の様な治療の法は、我が地方には無い所だ。」
と云い、

 「今から一時間と経ない中に、我れは元の様に手下に号令する事が出来るだろう。」
などと喜んだが、軍の気運は一時間の後を待たず、早や勝敗が決しようとする有様なので、彼れは更に気遣わしく敵軍を望み見て、

 「ドモンダの兵は弓に巧みである。若し接戦と為れば、我が兵の勝利は疑いないけれど、矢が飛んで来る事は此の通りで、到底彼等に接近する方法は無い。彼等は遠く離れて我が兵を倒し、吾が兵の力が衰えるのに乗じて一斉に押し寄せて来たならば、接戦に巧みな我が兵も、既に力を失っての後なので、如何することも出来ない。」
と云う。

 実に此の言葉の様に敗北は殆ど目に見える様な有様である。愈々(いよいよ)敵が勝ちに乗じて寄せて来たならば、唯だ魔雲坐の兵が破れるのみか、白人一同も蛮人の牙に喰われるだけなので、茂林は早くも決心し、

 「王よ、憂える勿れ、余に御身の精兵五十を借してくれるならば、余は我が雷を使う兵と合わせて、一撃に敵を挫こう。敵の挫けようとするのに乗じて、御身は部下を突進させて、得意の接戦を為さしめよ。」

 王は喜び、
 「そう言う中にも気遣わしい。吾れは充分に歩行し得る故、サア速やかに其の言葉を実行せられよ。」
と云う。

 茂林は直に名澤の兵卅名を集め、之を王の兵から選抜した五十名に合流させ、横合いから進んで、弓と銃を一斉に射撃させると、銃は実弾を取り上げて空砲ではあるが、其の音は曾(かつ)て此の邊の蛮人が、聞いた事が無い所なので、野に山に響き渡る凄まじさに、敵は全く色を失い、銃声と共に矢に仆(たおれ)た者迄も、響きに打ち殺されたと思った様に、早や狼狽の色が見えるのに乗じ、更に第二回の射撃を行わせると、全く敵の肝を奪うことが出来て、早や其の陣立ての備えを乱した。

 此の時日は既に暮れたが、この状況を見て、魔雲坐王の兵はここだと、突進して敵に迫り、今までの弓と弓との戦いは直ちに変じて、槍と槍、手と手、歯と歯との戦いと為った。

 其の様の激しさは譬える物も無く、叫ぶ声、罵(ののし)る声、泣く声は先の銃声よりも凄まじく、組み附き、捩(ね)じり伏せ、喰らい付き、双方人喰い人種の本性を弥(いや)が上にも現して戦う様は、黄昏の薄明かりにも凄(すさ)まじく、僅かに二十分程にして、全く魔雲坐王方の勝とは為った。

 敵は幾十百人を喰い殺され、総頽(くず)れと為って、背後の村に逃げ入ったが、此方は更に逃げるのを追い、其の村の所々に火を放った。
 四方から炎々と燃え上がる火の手に、今まで黄昏に包まれていた無惨な景色は、燭を軈(やが)て照らす様に明らかに現れて来た。

 死骸の腹を噛み破って臓腑を引き出す者も有れば、緊(しか)と組合って顔とも云わず首とも云わず、互いに喰い附き離れない者も有る。この様な無惨が今世紀に有り得ようとは、今が今まで思いも寄らなかった所である。平洲はこの様な有様を芽蘭夫人に見せまいとして、残る兵士と通訳等に夫人を守らせ一方に退かせた。

 其の間にも敵村の火の手は、吹き来る風に煽(あお)られて、唯だ益々燃え広がる一方なので、これでは兵では無い女や子供まで、其の罪も無い身を以って焼き殺されるばかりだと思い、魔雲坐王には此の上の暴行を止める事は出来ないだろうと、自ら馳せて火の村に入ろうとすると、其の尽處(はずれ)の矮(いぶ)せき小屋が正に火の中に在った。

 中に何とも譬(たと)え様の無い悲惨な声が聞こえたので、定めし逃げる事が出来ない人が、生きながら焼かれようとする者に違いないと、直ちに其の中に飛んで入ると、火は既に一方の小窓から紅の舌を吐いて入って来ようとしていた。

 其の下に足も腰も立たない一老父、転がって悶掻(もが)いているので、やはりそうだと抱き上げると、此の時窓から入る火の光がパッと照らすのを見ると、右手(めて)の壁に何やら、細かい文字を認(したた)めた一枚の紙が貼(は)り付けて有った。

 是は此の邊に有る筈の無い品なので、この様な危急の機(おり)にも怪しさが先に立ち、何人が何を書いて何の為に貼ったのだろうと、目早く見ると、紙の終わりに、アア尋ねに尋ねている「芽蘭(ゲラン)男爵」の名が記して有った。



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