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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

野の花

           三十四  「そなたの玩弄(おもちゃ)に」

 まもなく、冽から澄子に、愛児良彦を英国に送るとのことを話した。この時ばかりは、澄子が顔に怒りを現した。しかし、冽は万事怠りない。余り怒ったり、泣いたりする事も出来ないように、そばに母親や品子を立ち会わせたが、澄子はそばに人が居ることさえ一時は忘れ、今まで出したことのないほど断固たる声で、

 「いけません。良彦を英国に送るなら私も一緒に行きます。誰とて母の手から子を奪って行くことは出来ません。」
暗に人質の意味まで感じて取ったらしい。

 冽の母親も今まで聞いたことのないこの強い言葉に、さすがに邪険だと思い出したのか何も言わない。一人品子はあたかも吹き出すように笑って、
 「これは可笑しい。良彦がエートン校に行けば一緒に貴方は中学に入り、良彦がオックスフォードに行けば一緒に大学に入るのですか。」
 世にこれほど馬鹿にした言い方はない。

 冽は余程の憂いを帯び、嘆息とともに母親に向かい、
 「どうも、致し方有りません、お母さん。子供に教育さえ施すことが出来ないとは、実に一家の不幸ですが、これというのも、私の落ち度です。アア、アア良彦も貴族の嫡男に生まれながら人並みの教育さえ受けることが出来ないとは、実に可愛そうな者だ。」

 言葉の中に、澄子が貴族の母となるに足りないと言う意味が有り有りとこもっている。 このように言われてはただ悲しく恨めしいばかりで返すべき言葉も出ない。冽は更に澄子に向かって
 「では良彦は学校へも英国にも送らないから貴方のおもちゃにするが良い。」

 可愛い我が子をおもちゃにしたいなどと言う母が何処の世界に有るものか。余りいじめる方が酷すぎると思い、澄子は涙声になって、

 「それは貴方、余りなおっしゃりようです。何で私が良彦をおもちゃにしたいなどと思いますものか。それなら、どうか英国へお送り下さい。では、お母さん、貴方へお願い申して置きます。どうか貴方の孫と思い、貴方のお手でーーー」
と言いかけたが、後は泣き声となって、言いも聞きも分かることが出来なかった。そのまま澄子は伏し入って、ただよよと泣く様子が波打つように背なに現れるのみであった。

 冽は無言である。流石の母親も返事をしかねてしばらくためらっていたが、やがて少し極まりが悪そうな声で、
 「ねえ、冽、澄子がもう英国に送るものと折角決心した様子だから、やはり連れて行きましょう。」
と結論を着けてしまった。これでもう澄子が幾ら泣いたとて、仕方の無いことに局面が定まった。

 すでに結論を下してしまうと、母親は声も落ち着いて、更に澄子に向かい、
 「それはねえ、人情だから、一時は辛くも有るだろう。けれど、何、私がそばにいるのだから、風邪一つ引かせはしません。」

 澄子にとっては風邪を引かせる引かせない位の問題ではない。品子と自分との勝敗である。子を奪われるか奪われないか、もう、一層切に言えば、夫を奪われるか奪われないか、自分の身を滅ぼされるか滅ぼされないか、全く一生の浮沈の極まる問題とも言うべきである。

 品子は澄子に引き替えて嬉しさをこらえ切れない。
 「自分の子を教育するのが悲しいとは、澄子さん、そのようなことで人の母となることが出来ますか。」
と励ますように言った。

 親切らしいが実は勝ち鬨(どき)のようなものだ。この上ここに居ては勝った嬉しさがどうしても顔に現れるから、そのまま立ってこの部屋を出て行った。自分の部屋に思う存分喜びに行くのである。

 まもなく澄子もハンケチで泣き顔を隠したままで起き上がり、同じくこの部屋を立ち去ったが、実は大変な違いである。こちらは思う存分に泣きに行くのだ。



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