nonohana35
野の花(前篇)
トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ口語訳
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(拡大率125%が見やすい)
since 2010・6・4
今までの訪問者数 | 1000人 |
---|---|
今日の訪問者数 | 1人 |
昨日の訪問者数 | 0人 |
ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
三十五 「幾何学的の美人」
この時からして、澄子は多く自分の部屋へ引き籠(こもっ)たままである。出て来いと呼んでくれる人もいない。たまには応接室まで出て行きもするが、その度に夫と品子と母御との三人が、額を突き合わせて何かひそひそと話をしている。そして、澄子の顔を見ると直ぐにその話がやんでしまう。気のせいかは知らないが、確かに自分一人が邪魔者にされているようだ。
自分が引っ込んでいる間に、品子と冽の間柄がどのようになったかは知らないが、とにかく冽の身の廻りは品子が一手に引き受けたように世話をしているが、食堂で落ち合う時などは、冽の顔はただ真面目である。
品子へも澄子へも偏らず、二人の間に厳正に中立を布告しているように見える。これが果たして妻に対する作法だろうか。我が最愛の妻と、そして何でもない他の女との間に、何故中立を守るのだろう。何にしても澄子にとってはますます物事が面白くない方へ進むばかりだ。
そればかりか、品子が英国へ帰ることになって、この別荘で暇乞(いとまご)いの大パーティーを催すと言う事になった。家の厄介者となっている女のために、何でそのような催しまでするのか、もっとも母御も一緒に英国に帰るからのことでもあるのだろうが。
けれど、品子はただ自分一人のための催しとでも思うように、その準備に身をゆだね、毎日のように外出している。これは招待状のほかに、なお自分の口で招待に勤めているのだろう。招待を勤めるばかりではなく、まだ、そのほかの事まで触れ回っているのだろう。自分が英国に立ち去った後で、澄子を振り向いて見る者が居ない程に、澄子の名前を傷つけて置かなければ気が済まないらしい。
澄子はおよそ、その辺の様子も察したから、もう、社交界に出る気は無い。我が家の大パーティーにも出ない方がましだろうと諦めていた。多分、夫からも、出ろと言う命令は無いことだろうと思っていた。
ところが有った。それも当日の昼過ぎになって、今夜は品子のためのパーティーだから、立派にして出ろと厳かに言い渡された。背く訳にも行かないので、出ることには決めたが、本来気が進まないのだから、敢えて着飾りもしない。ただ笑われないだけの服装で、出るには出た。けれど、品子の美々しい様子とは比べ物にならない。
何でも品子は、今夜こそ澄子を輝き負かせて、自分が去ると共に社交界の光明が無くなったと思わせなければならない覚悟と見え、全く装いを凝らしている。今まで無かったダイヤモンドの飾り物さえ襟の周りに燦然と輝いている。誰かに貰った物と見える。
この女、年は早や、通常の女なら二、三人の子供もあるべき頃だ。それに容貌も知恵も、修養も人に優れ、何一つ申し分も無いのに、まだ縁付きもせず、人の妻たるものを羨み、小姑としてこれを競争しなければならないとは、よくよく不幸なことではあるが、ひとつには全体の貴族社会が、頑固だか欲深いのか、婚資の無い女を余り賞美しないことにある。
他の品物は向こうから代価を出して買いに来るが、女ばかりは良い買い手を得るには、どうしてもこちらから沢山持参しなければいけない。生憎その持参するものが無い。それを当人が知っているから、何でも手近な瀬水冽へ自分を売りつけなければならないという決心だ。
この頃の雲行きでは、満更その決心が届かないことも無さそうだ。自分は確かに届く事と信じている。このような女に限って、身を飾ることが人より一倍も二倍も上手だ。万年娘と言うのは得てしてこの手合いに多い。今夜などはその適例だ。澄子の方がかえって見劣りがする。少なくても冽の目には、そのように見えるのだ。
二つには又、この女、美しいことは美しいが、人に愛せられるような性質ではない。それで結婚が遅れたのだ。男女に限らず、顔はそうまで美しくなくても、自然に人の同情を引く性質と、又美しくても余り人に騒がれない性質とがある。品子は悲しいことに、後の方だ。
顔の輪郭から各線の関係を測定してみると確かに美人ではあるが、惚れ惚れとしたところが無い。つまり幾何学的な美人で、詩的な美人ではない。それに何より口の上手いのが害になる。何事も余り上手過ぎると下手より結果が悪い。
「正直は何よりの政略なり」
という格言は結婚市場にも当てはまる。
それはさて置いて、やがて続々と客は入り来たが、品子が触れ回っただけのことは有った。来る客も、来る客も、澄子に対しては明らかに冷淡である。勿論、一通りの挨拶はするけれど、身分の低い、交際するに足りない女と見下げているような様子が、万事の上に現れている。
確かに品子が、一生の毒舌を振るって澄子を悪し様に言い成して、今は社交界の到るところに澄子を排斥するような噂が満ちているに違いない。
次へ