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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

野の花

           三十六  「この夜であった」

 パーティーとさえ言えばきっと澄子の身に不愉快なことが起こる。取り分け今夜のパーティーはその成り立ちからして不愉快だ。
 品子に輝き負かされるのは、初めから覚悟しているとは言え、誰も澄子を主婦人のように見なさないのは実にひどい。我が家のパーティーで客からこう冷淡に仕向けられるとは、情けないと言っても良い。

 客よりもなおひどいのは夫冽である。多少は客の応接に忙しいからでもあろうが、ほとんど澄子という妻のあるのを忘れたと疑われる。そばに寄り付きもしないほどだ。

 ただ一度、澄子が顔色のすぐれて居ないのを見て、このまま置いては客の手前が悪いと思ったのか、通りがかりのついでに、
 「そなたは疲れでもしたのか。」
と聞いたきりだ。聞き方の味気なさには驚く。澄子も負けないほど、味の無い口調で単に「いいえ」と答えただけだった。
 このようなパーティーが何事も無く順調に終わるはずが無い。後で思うと澄子の身の破滅が今夜だった。

 これに引き替え、品子の得意さ加減は非常である。今夜こそ澄子を輝き負かせて、日頃の、仇を討ったと思えば、勝った上にも、なおその勝ちを引き立たせるために、時々多くの客を自分の従者のように引き連れて、どよめきながら澄子のそばを通る。覚悟した身も、こう見せ付けられれば、辛いものだ。いっそ、病気とでも言って自分の部屋に引っ込もうかと思ったのも度々である。
 引っ込んだとて、今夜の様子では、澄子が居ないと気の付く人も居ないかもしれない。

 そのうちに、ダンスも何番か済んで、パーティーの盛り上がりも最高潮に達した。こうなると、全くの無礼講のようなもので、客も主人も世辞やお勤めに様子を繕っては居られない。

 ダンス会場から、出て来て汗を拭う人も有れば、扇を使う者もいる。また、これから、相手を変えて踊ろうと言う者もいる。このような所へ、品子もダンス会場から出て来て、澄子の近くに身を置いた。何でもしばらく息を抜くためであろう。

 澄子はなるべく品子の様子を見ないようにしたいと思っていたが、自然と目に映ることは制するわけにもいかない。しばらくすると、冽も出て来た。彼は部屋中に目を配らせ、ようやく品子を見つけ、つたつたとやって来て、「もう、貴女の身は空いたでしょう。これから二人で踊りましょうか。」
 何だか宵のうちから約束が出来ていたような口調である。

 品子の顔は嬉しそうに晴れ渡った。
 「はい、私も待っていました。今夜限りで、当分貴方とは踊ることが出来ませんね。」
 いかにも、心惜しげな言い方だ。
 「左様ーーとも限らないでしょう。」

 品子はため息をついて、
 「ああ、これを私は踊り納めとしましょう。貴方に分かれては、踊る気もしません。」
 「え、踊り納め、何故に」
 「だって、貴方のような相手は又と得られませんものーーー他の人は背が低すぎたり、高すぎたり、或いはダンスが下手だったりで」

 「それほど私の踊りを貴重に思って下さっているとは知りませんでした。」
 「踊りばかりでは有りませんよ」
 冽は何の意味だか、
 「どうも仕方が有りません。」
と答えた。そして互いに気も急くように手を取り合って再びダンス会場に入った。

 ありふれたことと言えば言え。ありふれた事よりは少しひどい。この様子を見て、澄子の胸には一種の何とも言えない痛みが差し込むように突きあがった。やがて、入場を促す、音楽の声が聞こえると共に、客は又、波のようにダンス会場に入り、澄子は広間に唯一人の姿となった。確かにこの身は夫からも、他の何人からも捨てられているのだ。

 自分が一人この部屋に、このようにしている間に、夫は品子と、何事も打ち忘れて、ただ面白く踊っているのだ。夫の胸には、晴れ晴れした品子の顔が隠れ、品子の背には夫の親切な腕がまわり、寄りつもつれつ興じる様子が、目に見えるように思われる。これが嫉妬の念と言うものであろうか。手に取るように聞こえる足拍子や、どよめく声が、一々腸(はらわた)をかき乱すように響いた。

 澄子は居るにも居られなくなった。このままダンス会場へ踏み込んで、夫を品子の手から引き裂いて来ようかと思うけれど、それも出来ない。真にこの身は死ぬほかは無いかもしれない。
 「当人が死ぬまでは仕方が無い」
と人に言われるのもこのことか、今は夫までそのように思っているのか。今夜のこの有様では、この身が一人死んでも、何と思う人も無いだろう。

 思えば思うだけ、悲しさと恨めしさが募るばかり、あげくの果ては夢中の有様となって、庭の表に走り出た。



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