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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

           
     四十二  「この世への暇乞(いとまごい)」

 そのうちに着物を着て、粂女が次の間から出てきた。澄子の考えは、追っ手の者に捕まることが何より辛いから、駅で自分がゼノア(ジェノバ)と言う所まで切符を買い、この切符を持たせて、粂女一人を汽車に乗せてゼノア(ジェノバ)へ行かせ、自分は外の道を通り、途中の宿に追っ手が諦めるまで逗留して、そして後からゼノアに行き、粂女と一緒になって、英国に帰るつもりである。

 全くこれが、一番安全な策である。追っ手は必ず、ゼノアの方へ追いかけるのだから、よしや追いついて探し当てたところで、ただ粂女を捕らえるだけのこと。粂女を捕らえたところで、粂女が自分一人で英国へ帰るのだと言えばそれで済む。

 澄子がどの道を行き、何処でほとぼりを冷ましているかは、粂女さえも知らないのだから、追っ手に知られるはずはない。とにかくも世間知らずの澄子が、これだけの手はずを考えることが出来たのは感心する。非常の決心をすれば、また非常の思案も出るものと見える。

 これだけの考えを粂女に告げると、粂女は直ぐに理解した。外に言い聞くことは無い。
 「それでは、さあ、貴方が先に立って、行っておくれ。」
 粂女は先に歩み出した。澄子が続いて出ようとしたが、思えばこれが、全く我が家とした夫の家の見納めで、ほとんどこの世への暇乞(いとまご)いである。いくら決心した身でも、いよいよと言う時には辛い。実に踏み出すことが出来ない気がする。

 また、つかつかと我が寄り慣れたテーブルへ暇(いとま)を告げた。そして、引かれる後ろ髪を振り払うような気で、ようやく歩みだした。

 ああ、子爵夫人と言われる身が、この世の分かれとして家を出るのに、見送ってくれる人も居ない。全くの落人(おちうど)となって、しおしおと立ち去るとは、何と言う不幸な運命だろう。

 やがて、外に出て見ると、先ほど見えていた朧月(おぼろづき)は早や落ちて、辺りは暗い。暗いだけに、この屋敷の窓からさす明りがなおさら目に立ち、そして、中からは、音楽に人も楽しさに夢中になって、はしゃいでいる声も聞こえる。

 今しもこの屋敷の主婦人が、涙とともに落ちて行くとは、中に居る人の誰が知っているだろう。振り返っては心を引かされる元だからと、澄子は顔に手を当てて俯(うつむ)いたままで、走るように去った。間もなくその身は闇の中に隠れ、音楽の声も届かなくなった。

 駅に着くと、夜更けのことなので、普段のように雑踏は無い。静かに切符売り場に行って、決めておいた通り、自分一人で一枚の特等切符を買った。

 この所の駅長は、永く勤めている人で、大抵の紳士貴婦人の顔を知っているが、場内を見回っていてこの様子を見、どうも瀬水子爵夫人らしいと思った。誰か従者でもいるかとその辺を見回したが誰も居ない。ただ少し前に着いた、一婦人が待合室の隅の薄暗い辺りに、寒そうに小さくなっているばかりだ。

 今宵は子爵の所にパーティーのあることさえ聞いているのに、その主婦人たる人が一人旅行するとは、いかにも理解できないから、人違いではあるまいかとわざわざ傍に行ってお辞儀をしてみた。人違いではない。全く子爵夫人で、しかるべくお辞儀を返した。

 「何かお荷物でもありますれば駅夫を呼びましょうか。」
となお念のために言ってみた。夫人は
 「イイエ、それには及びません。」
と答え、ついで
 「汽車の出るまで、余ほど時間が有りましょうか。」
と問われた。

 「もう定刻より五分遅れています。何時もなら着いているいるところですが。」
と答えた。そのうちに汽車の響きが聞こえたので駅長は急いで去ったが、それでも心の中に「英国の婦人は実に奇妙な行いばかりする。子爵夫人とも言われる者が夜中に一人で旅行して、後から夫が来るかと思えばそれも無い。そして恥ずかしそうにもしない。」
などとつぶやいた。

 澄子はすぐに粂女が小さくなっている隅へ行き、二言三言話をして、そして旅費を分けるなどしたが、誰もこの様子を見た者は居ない。いよいよ汽車が出るときに、白い切符を持った婦人一人、上等車に乗り込んだ。駅長はこれを見て、
 「全く子爵夫人が、単身で乗り込んだよ。不倫相手にでも会いに行くものと見える。」
 再びつぶやいて、そして発車の号令笛を吹き鳴らした。



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