nonohana43
野の花(前篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
四十三 「ふさふさした長い髪の毛」
白い切符を持って汽車の一等席に乗り込んだ、この婦人が誰であるかは、勿論読者が知っているはずである。これと同時にもう一人の婦人は、駅の待合所からこっそりと、誰にも見られずに、誰にも気づかれずに去ってしまった。
もし人間の身の上に、創造主が手を出すような事があるとすれば、この後のことは確かに創造主が手を出して干渉したのだ。いたずらの為だか真面目な目的を持ってだか、それまでは分からないが、創造主の干渉が無ければ、決して物事がこう異様にからんで行くものではない。
これをもし、事実らしくはないと言う人が居れば、事実には、数限りがないから、人間の知恵で「これは事実らしい」の「これは事実らしくない」のと、区別を付けることは出来ないと、答えなければならない。
それはさて置き、一等車には外に乗り合わせた人はいない。婦人は中を見回したが、やがて総ての窓を閉じた。そして、隅の方にしゃがみ「オオ寒い、寒い」と言って身を震わせた。余ほど寒気がするものと見える。けれど、その中でも絶えず口の中でつぶやいている。
「このような事になるのも、皆品子さんが悪いからだ。女のくせに本当に悪魔だよ。」
更に何かをつぶやくうちに、次第に心を失うものか、その言葉が病人のうわごとのようになった。
「どうも死にそうな気がする。死に神が近づく時は、虫が知らせるとやら言うが、この様な気持ちがするのが、もしやそれではないだろうか。」
しばらくすると、非常に呼吸が荒くなり、動悸も加わった。婦人は最早何事も言うことが出来ないように、椅子に俯(うつむ)いたままである。見たところでは死人の様だ。或いは死んでしまったのではないだろうか。イヤ、そうではない、又起き直った。そして今度は、ハンドバッグを膝の上に置き、後ろにもたれて眠り始めた。
或いは高く、或いは低く、全くその呼吸が不揃いであったが、果ては呼吸も何もなくなった。この時、もし医者が見たなら、早や、事切れて診察するまでもなかったのではないか。どうも生のある人とは思われない。けれど、医者も居なければ、通常の乗り合わせた人もいない。この容態を死か生かと怪しむ者はいない。
もしこれを死とすれば、実に憐れむべき限りである。年はまだ三十に足らず、人生の半ばにも達しないのに、一人旅の汽車の中で、介抱するする者もなく死するとは、非常に運の悪い身の上である。とは言え、人の運は様々で、世の中にはこれよりも早死にするのは幾らでもある。
生まれながら、目を開いてこの世を見ることさえよくせずに去るのもある。或いは長寿にて畳の上で死んでも、生涯苦しみの外は知らず、その死に際にも、思い置くことばかりあって、ほとんど、往生の出来ない人もいる。そのような人々に比べると、長い病みわずらいもせずに、こう易々と死ねるのが或いは幸いかも知れない。
ともかく、この婦人は再び目を開かなかった。この汽車が「セダイ」と言う途中の小さい駅の付近まで来ると、向こうから来る汽車と衝突した。全くこの汽車が普段より五分遅れたのと、向こうの汽車が五分早過ぎた為であった。信号に間違いがあったというのと、信号を見損じたと言うのと争いとなったが、実は双方とも落ち度が有ったのだろう。
天地も一度にひっくり返るほどに感じたのは、幸いに生き残った乗客で、不幸なのはそのような感じさえしないうちに、打ち壊れる汽車に命を奪われた人だ。何事も知らずに冥土に行ってしまったのだ。そのような死人は十二人、一時助かったが、苦痛のうちに死んだのが九人、軽重なけが人は数十人で、実に無惨な有様だった。
その混雑は説明しようにも説明し切れない。読者の多くは親しく汽車の衝突に出会った事もあるだろうから、ここにはただ推量に任せておく。
やがて、「セダイ」の駅から大勢の人が出張して来た。中には医者もいる。巡査もいる。看護人もいる。死骸はそれぞれ検分され、けが人は担架に乗せられるなど、提灯(ちょうちん)の明かりが縦横に馳せかっているうちに夜が開け放たれた。
今まで誰も気がつかなかった土手の下に、転げ落ちた汽車に押しつぶされて立派な女服が見えている。
「ヤヤ、あそこにも死人が」
と初めて見つけた人が叫ぶと、四、五人が続いて駆け降りた。そのうちには自ずから指図する人がいた。
「まだ生きているかも知れないから、なるたけ用心して、痛みを与えないように、汽車の壊れたものを取り除け」
と命じた。
少しの間に汽車は取り除かれた。下から前身現れ出たのは、まだ年若いと判断できる婦人で、ふさふさした長い髪の毛が、肩の辺まで掛かっている。毛皮の立派な外套は人目で100万円近い品と分かる。確かに貴婦人である。最初に見つけた一人が、あたかも一般の人の死骸を見つけたのよりも一層手柄があるように、
「これは俺が一番先に見つけだしたのだ。一番先に」
と言って、近づいてその顔を指し覗(のぞ)いたが、
「アレー」と叫び、顔を背けて飛び退いた。
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