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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    四十八  「その言葉が当たった」

 悲しい時には、悲しいことばかり思い出す。冽は結婚の前に澄子の言ったことを思い出した。自分が到底子爵夫人の地位を持ちこたえることは出来ないとも言った。この結婚が決して幸福に終わらないことも言った。取り分けて、もし夫に少しでも愛想を尽かされたと感じては、自分の気持ちとしては一刻も生きていることは出来ないと切実に言った。今はその言葉が当たったのだ。

 死んだのは不幸の怪我とは言え、そもそもこの汽車に乗ったのがその言葉を実行するための第一歩であったのに違いない。
 このように思うと、しばらく薄らいだようになっていた愛の念が、一時に元に返って来た。結婚の当座、これより深い愛はないと思った頃よりも、更に一層の愛を感じた。何故に、たとえ一時にしろ、澄子を疎んじる気になったのか、何故、しばしと言えども、品子に心を移すことになったのか、自分でも納得が行かないほどに思う。

 それに付けても、ただ増すものは悲しさだ。ほとんど、前後をも忘れたようで、プラットホームへ立ったまま身動きもしない。そばからドクターは注意するように、
 「とにかく夫人の遺骸をどうするかご相談をして決めなければ。」

 冽は初めて、曇った目を上げ、「
 死んだということに間違いは無いでしょうね。もう、手当てしてこの世に呼び返す道は無いのですか。少しも見誤りや、間違いなどは無いのですか。」

 ドクターは直接冽に返事するのに忍びない。振り返って警察長官の方に向いて、
 「その様な疑いを差し挟む余地の無いのが、実にお気の毒です」
 長官;「何とも、お気の毒に耐えません、」
 冽;「ですが、その死骸は何処にありますか。私に見せて下さい。サア、直ぐに見届けさせて下さい。」

 長官とドクターはとは無言のままでしずしずと歩み始めた。冽も無言でその後に付いて、ついに待合室に入った。ここには十程の死骸が枕を並べて横たわっている。いずれも血にまみれた様子は、無惨ととも、痛ましいとも言いようが無い。この中に我が妻澄子が混じって居るかと思うと、胸は板のようになる。

 けれど澄子の死骸はこの中ではない。ドクターと長官のとの配慮で、特に駅長の別室に入れて、特別の手当をしてある。三人はこの待合室を通ってその別室に入った。
 部屋の上座とも言うべき所に、女の死骸が、顔にハンケチを当てられたままで横たわっている。冽は一目見て、
 「妻澄子です。澄子です。」
と叫んだ。

 勿論、澄子と見る外はない。ふさふさした髪の毛、その艶、その色、全く疑う余地を残さない。そして所々に血が付いて、半ば乾いたところだけは、毛の筋が固まったようになって居る。しかもこれだけには留まらない。

 着ている毛皮のコートは特別に自分がフランス、パリの仕立屋に注文して一昨年の暮れに取り寄せてやったのである。ハンケチの下から少し見えている額の生え際も確かに澄子だ。澄子の外に誰でもない。

 「如何にも私の最愛の妻、澄子です。ドクター、このハンケチを取り、良く顔を見せて下さい。」
言いながら早やハンケチに手を掛けた。
 ドクターは遮って、
 「イヤ、それだけはおよしなさい。貴方の最愛の夫人と言えば、夫人は貴方にこの顔を見られる事を好みますまい。又、見ましたところで、少しでも生前の顔の認められるような所は残って居ません。一車の重みが総てとも言うべきほどこの顔の上に落ちたのです。それを夫として更にご覧になるのは罪深い所業です。」

 罪深いと言う一語がひどく冽の胸に応えた。今までの我が所業、思えば実に罪深い事であった。取り返しのつかない今となって、この上に又も、澄子に罪深い行いを加えてなるものか。唯この一念の為に、再びハンケチに手を触れようともしなかった。よしや手を触れて、これを取り除いて見たところで、勿論、その顔に認めの付くところは少しも残って居ないのだ。

 こうまで顔が分からないようにしてしまうとは、創造主の干渉と言わないで何と言おう。
 冽は懐かしそうに、髪の毛を撫で、又、コートの上から胸をさすりなどして居たが、そのうちに又も耐えられなくなり、全く俯いてその柔らかな髪の毛に自分の顔を当てて泣いた。

 ドクターは何と慰めて良いか分からなかった。せめてと思ったのか、
 「イヤ、実に不幸は不幸ですが、夫人は何の苦痛をも感じない中に、ハイ、全く即座にこの世を去られたのです。同じ死ぬなら私なども、この様に死ぬ方が幸いだと思います。」

 長官は更に、
 「もう御疑念は有りますまいけれど。」
と言って、この死骸に付属していたハンドバッグを差し出して、「これがこの方のお持ちの品です。」
と冽の前に置いた。

 冽は手を震わして、これを開きその中を改めた。もとより自分の見覚えの無い品は一つもない。ことごとく澄子の身を離れもせず離しもしない物のみである。中に自分の手づから与えた品もあるに至って、また腸(はらわた)のちぎれるような気がする。

 けれど、瀬水家は昔から英雄の出る血筋である。その血筋を受けた冽は、そう何時までも女々しくは泣かない。
 必死の思いではあるが、やがて泣き声を止め、涙を乾かせて立ち上がった。

 そして二人に向かい、
 「長官、ドクター、これは全く私の、最愛の妻です。今まで愛の尽きた事は無く、この後とても、尽きる時のない、妻澄子です。」
と我が愛を吹聴するように言い切ったのは、死んだ澄子の霊に対する、せめてもの慰め、せめてもの詫びであろう。



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