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野の花(前篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

     五十  「短い言葉」

 父陶村時正は澄子が結婚して以来、この家に来たことがない。来たのは今が初めてだ。実を言えば、来るべき場合は度々有った。けれど澄子が招かなかった。招いて、父を交際の面倒な貴族などに引き合わせ、そして母御や品子の物笑いの種とするのが辛く、それに又、自分がこの家の主婦人でありながら、主婦人のだけの地位を得て居ない有様を父に見られるのも辛いと思った。それで、手紙を送るたびに、なるたけ来ないように言ってやった。

 澄子が結婚して以来の、実際の有様を考えて見れば、このように思ったのも無理はない。決して自分の父に安心して見て下さいと言えるような境遇ではなかった。ただし、あの良彦が生まれた時だけは、父を呼びたいと思ったが、その命名式のごたごたで気色を損じ、この時を境に、父を呼ぶまいと決心したのだ。

 その後、英国を発ってこの国に来るとき、澄子は冽の許可を得て、良彦を連れて、父の元にちょっと帰って、そして三日ほど逗留した。父時正が澄子の顔を見たのは、婚礼以後にはこの時が唯の一度だ。後にも先にも無いことだ。

 その時澄子はなるべく父が心配しないように、夫と自分の非常に親しい様子を語ったが、父は総てはそのことは信ぜず、どうも、娘の身に楽しくないことが有るらしいと思い、そのうちには、自分で実際を見届けに行こうと腹の中で決めていた。今度がすなわちその決めたことに従ったので、澄子が、夫の家でどのような位置を占めているのか、それを見て安心したいと言うのがただ一つの望みである。

 この様に思って来た者が、その娘が既に一昨日葬られたと聞いて、悲しまずに居ることが出きるだろうか。流石に、何事にも我慢強い田舎人だから、そう、騒がしく泣きはしなかったが、ただ腹の中で悲しんだ。その様子が品子の目にも母御の目にも好く分かった。流石の品子も心の中で嘲笑うことさえ出来ず、何となく裁判官の前に引き出されたような気持ちがして、十分には頭も上がらなかった。

 けれど、時正は無言の中に大抵の様子を察してしまい、我が娘が逃げ出したような家には一夜でも泊まるまいと決心し、冽を初め一同が引き止めたが、聞かずに立ち去って、自分の気に入った宿を取った。しかし、この宿に泊まったのも、一晩だけだった。
 冽の元から立ち去る時、明朝どうか娘の墓に詣でさせてくれと言い、翌朝果たして詣でるために尋ねて来たから冽が自分で案内した。

 馬車に乗せようとしてもどうしても乗らないので、徒歩で墓の所まで一緒に行ったが、道々冽に向かって、一語をも交わさない。冽は別にこの父を恐れるところはないが、何だか気がとがめるような気持ちがして、自分から話しかけることが出来ない。たとえば、学校の子供が悪いいたずらを教師に見られて、こっちへ来いと言って、教師の部屋に連れて行かれる時のような気持ちである。

 無理もない。この人の、天にも地にもまたとない程に思っている一人娘を貰い受け、必ず生涯を幸せにすると請け合って置いて、請け合ったほど幸せにしなかったのだ。この人が自分をどれほど深く信任したか、自分がどれほど厚くその信任に報いたかを考えて見ると、ただ赤面の外はない。

 決して自分が手を下して澄子を殺したものではないが、この人の前に出ると、そのような気がする。これではならないと、自分で自分の心を励ますけれど、少しも我が心は励まない。

 やがて、墓場に着くと、時正はやはり無言で、その新しい仮の碑を眺めていたが、ついにその前にひざまずき、
 「コレ、娘、何も思うな、父も数年の後には、そなたと同じ所に行くから、心安らかに冥福を遂げてくれ。」
と生きた人に言うように言って、しばらくその顔を上げなかった。さめざめと泣いていることは、後ろから見ている、冽の目にも良く分かる。

 ようやくにして、立ち上がると、初めて言葉を正しくして、冽に向かい、
 「これ限りで再びお目に掛かる事もないでしょうから、私は唯一言貴方の口から、誠のことを聞きたいと思います。何で娘は一人ゼノア行きの夜汽車に乗りましたか。」

 冽は真に何と答えてよいか分からなかった。あたかも天の助けでも請うように、その穏やかならない顔を空に上げた。
 言葉巧みに言いつくろう術はいろいろあるだろうが、誠を聞かせよと言う一語に対して、偽りを以て言いつくろうことはまさか出来ない。冽はそれほどの悪人ではない。

 口ごもり口ごもり、
 「イヤ、何故だか私にも分かりません。けれど、正直に申せば、家の中が余り楽しくなかったかも知れません。」
やっとの事で有り体に言い切った。

 父は顔の一筋も動かさず、非常に厳かに、
 「私は貴方が悪かったのだと申します。妻の心に楽しくないところが有れば、夫がそれを楽しいようにしてやる事が、出来ないことは有りますまい。私は貴方を信じて我が娘を託しました。貴方は私の信頼に背いたのです。」
 こう言い渡したままで、父は飄然(ひょうぜん)と去ってしまった。これきりでこの父とこの冽は再び顔を合わせる時が来なかった。

 短い言葉ではあるが、冽の身には宣告のようにこたえた。冽は自ずから頭が下がり、この人の顔を見ることさえ出来なかった。ようやく顔を上げたときには、早や、この人が立ち去った後だった。



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