nonohana52
野の花(前篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
五十二 「新聞紙の有難さ」
先ず誰にも発見される恐れのないカンポの山里へ、一時澄子の身は落ち着いた。身は落ち着いたが心は全く夢中の様である。最初の日、後の事など様々に考え様としたけれど、ぼーぅとして我が心が何処にあるか分からない。
ただ胸に満ちているのは、昨夜限り最愛の夫を捨て、家を捨て、子を捨て、身分を捨て、そしてこれからは死人同様に、一切人間の浮き世から隠れてしまわなければならないとの、非常に悲しい一念である。外の事は考える余地がない。考えようとすれば唯涙が先に立つ。
二日、三日、四日と経て、五日目に至り、ようやく多少の思案をすることが出来るようになった。定めし侍女粂がゼノア(ジェノバ)の宿でこの身を待っているだろう。もう、ここを出てゼノアへ行って良いだろうか。我が身を尋ねる捜索は緩むんだろうか。誰かにその辺の様子を聞いてからにしたいと思うが、誰に聞く当てもない。
この様なときには新聞紙を読むに限ると、ようやく思い定め、日の暮れに宿を出て、数キロ離れた町屋の在るところまで行き、そして、我が身が、夫の家を出た時から今日までの、フローレンス(フィレンツェ)の一新聞を揃いさせて買って帰った。
日頃、新聞紙をそうまで有り難いものとは思っていない身も、この様な時にはその尊い事が分かる。やがて、灯火の元で、日付の順を正し、先ず初めの一枚を開くと、欄外に大きな文字で、
「汽車の衝突、セダイ付近の大惨事」
と書いてある。
汽車と言い、セダイと言い、総て気に掛かる文字なので、早や、胸の躍るように覚え、目を見張って読み下すと、
「この新聞の既に印刷に着手して後、急電報に接したれば詳細は記すことは出来ないが、今朝一時、ゼノア(ジェノバ)行きの汽車、セダイ付近にて衝突し、列車破壊して死者十余名有り、我が社は直ちに社員を特派したれば、後刻号外を以て再報せん。」
とあり。一時と言えば確か粂女の乗った汽車である。
次の日の新聞を開くと、ほとんど一面をその記事で埋めている。澄子は息もつげないほどの思いで貪り読んだが、手に取るように惨状を記した中に、気絶せんばかりに驚かされた一項があった。
その文句は、
「取り分けて、吾人が最も気の毒に思うのは、貴族一家をして深い悲しみに沈ませしめた一貴婦人の即死成り。前年来、当地に仮寓せる英国貴族瀬水子爵の夫人澄子の方は、急用にて英国に帰ろうとして不運にもこの列車に乗り合わされ、最も無惨な死を遂げた。第一号の一等車がこの夫人の顔を圧したりと言うことで、到底見分けのつかないまでに、容貌が崩れたが、衣服、頭髪、所持品等から直ちに他人に有らずと明瞭したり。瀬水子爵は報に接して、現場に急行し、遺骸引き取りの用意中なるが、子爵の悲しみは真に断腸の有様に見受けられ、医員、警官なども共々涙にむせびたる程なりき。」
是に続いて澄子の日頃のことなどをも、書き連ね、
「絶世の美人」
と言う語を繰り返し用い、最後に、
「この夫人が当国に来たりたるにも、子細あるやに言う人有れば、盛宴の夜に単身帰国の途に上りたるも同じ子細の為ではないかとなど怪しむもある様子なり。されど、吾人はその子細なるものの、決して瀬水家の恥辱となるごとき類にあらずことを信じ且つ望む。」
など異様に記してある。
澄子は何よりも先に、粂女の為に声を放って泣いた。夫冽にまで我が身と見誤られたその遺骸は粂女であることは無論である。是を思うと、
「死ぬところまでお供します。」
と言った語が本当の事となったのだ。自分が頼みさえしなければこのような不幸には遭(あわ)なっかっただろうに、実に痛ましいかぎりである。
全くこの身の身代わりになって、この身の為に死んだので、いわばこの身が手を下したのも同じ事だと、一時はこうまでも思い詰めた。
けれど、事実はそうではない。粂女は病の為に死んだのだ。死んだ後で汽車が衝突したのだ。
よしや、澄子が連れて出なくても、亦この汽車に乗せ無くても、その寿命が尽きていたのだ。哀れではあるが、同じ寿命が尽きるなら、澄子と間違えられて、永く妹のように扱われた恩を返し、かつは貴族の身分のように、名誉ある大礼を以て葬られたのが、かえって幸いだったかも知れない。地下でもしも知ることがあれば、必ず喜んでいるだろう。
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