nonohana53
野の花(前篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
五十三 「後々又何(ど)のような」
澄子はしばらく粂女の為に泣いていたが、泣いても元に戻らない事なので、後で死後の弔いの方法を考える事にして、更に次の新聞を読んだ。
一枚には「子爵夫人の遺骸」と題して、冽がセダイからかの死骸を取り寄せたことも出ている。又次には冽が墓地まで買い入れた事、葬式の準備中なることなどを記し、最後の一枚には今日がいよいよその葬儀だと言って、美人薄命などの文字を並べ、記者が多少の弔意を表してある。
そうすれば今頃は既に地の下に埋められたのだ。粂女の死骸がこの身の死骸と思われてしまい、この世から消えてしまったのだ。もはや、誰がその間違いを知ることが出来ようか。この身がこの世に長らえて居るなどと、誰が思うものか。
みすみすこの大きな間違いを間違いの本元であるこの身が、知らない顔で居て良いだろうかとの疑いが澄子の胸に浮かんだが、それはほんのちょっとのことである。真にこの間違いこそ天がこの身の決心を賛成し、この上もない補助を与えてくれたのだと思い直した。
元々この身はこの世を去る決心で、ただ自殺の罪深さを知るために自殺だけは思いとどまり、その代わりに今から後を死人同様に暮らすつもりで家を出たのだ。夫にも死んだ者と思われ、世間からも死んだ者と思われ、全くこの世に痕跡を留めない者になってしまいたいのが、初めからの願いだ。
今は全くその願いの通り、誰からも死んだ者と思われる事になった。天がもし、この身のこの決心を助けるのでなければ、この様な奇怪な間違いが起こる筈がない。どう考えても天のなす業だ。よし、是を幸いに何処までもこの身は死んだ者となってしまおう。
死んでいないのに死んだ者と思わせるのは人を欺き、世を欺く事に当たるかも知れない。けれど、あえてこの身が、求めてこの様な間違いを作り出したわけではない。人が、自ずからこの身の死骸でないものをこの身の死骸と思い、死なない者を死んだと思い込む事になったのだ。
誰の所為でもなく、ほとんど天然自然にそうなったのだ。天意である。天がこの様に取りはからって、賜(たまわ)ったのだ。
それなのに今更この身が、世の人にまだ生きていることを知らせるような所業をしては、天の助けを無にすることになるのだ。天意に対しては済まないことになる。
今までにしても強かった世に隠れる決心が、是のために更に一層強くなった。よしや、この後何年の寿命が続こうとも、この身は決して澄子だと思われてはならない。澄子の生きている疑いを、毛ほども世の人に起こさせてはならない。死人がこの世から隠れると同様に、この身もこの世から隠れなければならない。
この様に隠れたために、後々又どのような意外な事柄を引き起こすだろうなどとは、少しも思いつかない。このまま、この身が隠れてしまえば、再び品子にいじめられることもない。再び夫に邪魔にされる事もない。そして、夫をを喜ばせるのだ。夫の身に自由を与え、夫の身を幸いにするのだと、最初に決めた心が、益々強く凝り固まった。
悲しいことは悲しいが、今、初めての悲しさではない。最早や、一刻も早くこの身の生涯の隠れ場所を求めよう。今までは父に相談して、どこかに隠れ場を、与えて貰う覚悟でいたが、こうなっては、父に会うのすらこの身が生きている事が分かる元になるので、父にまで死んだ者と思われて果てなければならない。
と言って、さしあたって、この後の暮らし方もあることだから、兎に角、英国に帰らなければならない。帰った上で、どこか片田舎で身に似つかわしい職業を求める事にしよう。そのほかに良い方法が浮かばない。
そして、帰る途中でも、この身を見知る人に会う恐れもあるので、十分に姿を変え、もし知った人が見ても、澄子とは気が付かない様に、いや、よしんば、夫冽が見ても、我妻だとは思いもよらずに、通り過ぎるほどまでに、今までの姿を捨てなければならない。
又も一夜をこの思案に明かしたが、この家の人にさえ、姿を変えて立ち去ったと思われるのは良くないので、今日の日暮れに明朝発つと言って、勘定を済ませ、その後で密かに姿を変え、夜の中に忍び去ることにしよう。忍び去って先ず憐れむべき粂女の墓に詣で、心ばかりの詫びを述べ、その上で、英国に立ち帰ろうとようやく大体の考えがまとまった。