nonohana54
野の花(前篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
五十四 「墓前の花一輪」
自分の身を苦しめて人の為に何か事をすると言うことは、普通の人には出来ないところだ。大抵は人を苦しめて自分の為の事をする。
けれど、千万人の中に、どうかすると自分を苦しめて人の幸いになる事をすると言う、変わった人が出る。是を博愛家とも慈善家とも言い、その行いを献身的、犠牲的などと言う。自分の身を人に献じてしまうのだ。昔から聖人君子と言われる人々がこの類だ。
この様な人がたまに現れて手本を残してくれるので、残る我欲の人たちが、どうにかこうにか人生を安楽に送ることが出来る。この様な人が絶えたら、世の中は全くのつかみ合いとなってしまう。女では澄子のような者、女だけに考えは狭いが、言うならばこの類だ。他人には真似(まね)も出来ないほど献身の気質を備えている。
自分の身を死人同様の境涯に落としてまでも、夫の身を自由にしたいと言う。これが普通の女性に出来る所だろうか。ややもすれば胸ぐら取る向きなどとは、雲泥とも何とも喩(たと)えようもない相違だ。
是も天性、彼も天性、既に天性であって見れば、澄子の為にはこの献身的な所業が愉快なのだ。飲酒家が酒を飲まずに居られないように、澄子は献身的な行いをせずには居られないのだ。
勿論、自分の身を、無い者同様にするのだから、辛いことは辛い。悲しいことは悲しい、けれど、辛い、悲しい地位に立たなければ、自分の気が済まないのだ。
察するに、我が読者も大抵はこの様な心のある人であろう。多くあるか、少なくあるかは知らないが、必ず心の底にこの様な心がいくらかある。静かに自分のことを考えて見てほしい。
時々人のことが気の毒でならず、着ている着物を脱いでまで、与えようと思うような場合があるだろう。脱げば自分の身が寒いには決まっている。けれど、その時には寒いのが気持ちがよい。
自分一人で温々ととして、人の哀れな様を知らない顔で見ているのが、寒さよりなお辛いのだ。是が人の心の美しい所というもの。澄子などは、顔に人よりも美しさが多いと同じく、心にもこの美しい所を人より多く持っている。
* * * * * *
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もう大抵の考えが定まったので、まず姿を変えるために小さい鏡を取り出して、自分の顔を見た。数日前とは大変な違いである。人の一生の悲しみを集めたのより更に多く、この数日の間に悲しんだ為、目の縁が薄黒く見え、そして口元にも愁いの筋が現れている。
よしや、この上に姿を変えなくても、夫冽に見られても、別人だと思われるかも知れない。ただ変わらないのは髪の毛だ。悲しみのためには、一夜の中に白髪になることもあると聞くが、白髪にはなっては居ない。
是をこのまま残して置いては、このために見破られるかも知れないと思って、惜しげもなくこの髪を根本からふっつり切った。そし思うところがあって、切った髪の毛を少し我が肌に収めた。
次ぎには自分で未亡人の被る頭巾を作った。これからは全く未亡人の生活だから、未亡人の頭巾は丁度適している。又次には絹の着物も、今までの身分を疑われる元だからと言って、宿の女将から田舎人の着る木綿の着物を譲って貰った。是を着て、常に頭巾で額の下まで隠していれば、誰一人澄子だと思う人はいない。まして、澄子はこの世に亡い人と思われているのだから。
これだけの用意をして、この夜、まだ宵のうちにこの家を立ち去った。
そして、町屋のあるところまで歩いて行き、貸し馬車に乗ってフローレンスに引き返した。これは、自分の墓となっている粂女の墓へお詫びの墓参りのためである。
墓は人里離れた共同墓地にある。ここに着いたのは夜の十二時過ぎで、番人も寝た後である。落ち残る月影に透かして見る
と、花などが黒く草むらのように見えているのが、問わずと知れた自分の墓で、新聞に出ていた事柄を思い合わせて、様子も分かっている。
その前に行って膝をつくと、最早や涙の尽きたかと思う目にもまだ涙が出る。しばらくはただすすり泣いていたが、やがて口の中でお祈りを唱えて、
「粂や、許しておくれ。私の考えの足りないところから、貴方に無惨な最後を遂げさせてしまった。是を思うとこの墓が、私の墓では無いことを世に知らせなければならないが、貴方も知っての通り、私には世の中に出ることが出来ない訳があり、これからは死人も同様に浮き世を隠れて暮らすのだから、この墓を自分の葬られた墓と思い、心の誓いを固めておく。」
「その代わり貴方の後は絶えず私が弔います。私にしても、永く生きては居ないだろうから、遠からず貴方の居るところに行き、十分に詫びもします。その時まで何事も許しておくれ。」
と生きた人に言うように言い、
更に肌から自分の髪の毛を取りだし、まだ固まっていない柔らかな土を、棒きれで掘り返し、是をそこに埋め、更に墓前の花一輪を摘んで取り、
「是を私は貴方だと思っている。」
と言って、自分の肌に納めた。この時の心持ちはただ読者の推量に任せておく。そして澄子はここを去り、行方も知れなくなった。