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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(前篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

           五十五 「眉毛を染める薬も」

 英国の小都会ダベルという所の或静かな町に、長く以前から営業している理髪店がある。およそ男女の化粧に使う物は何でも揃っているので、各国から来る香水や紅白粉の類は言うまでもなく、横浜から輸入する扇まである。

 この店の主人の名はポリウと言ってフランスから移住してきた者であるが、今は土地の人同様に見られている。そしてその理髪の技術はパリ第一の師匠について稽古したということで、特に上手なのは、直ぐ髪の毛を縮れさせることにある。外に髪の毛が沢山増える薬の作り方も知っているということだ。

 この主人、気質もなかなか面白い。フランス人特有の愛嬌者で、誠意もあって、特に婦人には親切だ。けれど五十歳の今日まで妻帯したことがない。それで品行も正しいのは、さては女嫌いかと人が聞くと、
 「イヤ、私ほど女性を愛する者はおりません。全く女性に目がないのです。」
といつもニコニコしながら答える。

 その訳を聞くと、
 「サア、目がないから、どの女性を我妻に選んで好いか、その見定めがどうしても出来ず、極公平に女性というものをことごとく自分の妻に出来る世の中なら兎も角、そうでない以上は、気が迷ってそのうちの一人をということが出来ないのです。」
と言って笑っている。

 これを余ほど気に入った冗談と自認していて、誰に向かっても繰り返す、実に罪のない人だ。しかし、理髪の技術は全く上手で、その看板兼腕見せに、いつも自分の頭を芸術的に、真ん中から左右に掻き分けて、その先の方を見事に縮れさせ、これに油や香水を付けて、フケ一つ無いようにしている。

 嘘か誠か、自分では禿げる性質だが、自分が調合する薬で、この様に少年のような頭で居られるのだと吹聴している。けれど、店の番頭に禿げている者もいるところを見ると、余り当てにはならない。そして、客のない時には、いつも店の前に出て行ったり来たりしている。全く生きた看板を、なるだけ多くの人に見せたいらしい。

 今日もまだ朝の間で客が無い。例によって店先に出ていると、向こうから貴婦人と見える女性が歩いて来る。目のない先生、なかなか眼力が鋭く、「ア、お客だ」とつぶやき、ちょっと後ろを向いて店の姿見を覗き、頭へ軽く手を当ててみた。看板が無事か調べるのだ。

 そのうちにいよいよ近づいて、婦人を見ると、未亡人頭巾を被って顔は濃いベールで覆っている。どう言うわけだか、洋服は意外にみすぼらしく、田舎者が着る木綿服だ。けれど、その歩き方のおしとやかな様子、姿が美人らしく見える所など、どうしても貴婦人だ。

 これが店の前まで来ると、主人は丁寧に頭を下げた。いや、丁寧ではない、頭の真ん中がまだ禿げていない所を見せるのだ。
 婦人は少しためらったが、店の中に入り、疲れたように腰を下ろした。けれど、ベールは取らない。もし、取ればきっと美しいに違いない。

 主人は極うち解けて、しかも恭しい言葉で、
 「御用は何でしょう。」
 婦人は何か言っているが余りに声が小さくて聞き取ることが出来ない。主人は耳を澄まして聞くと、
 「こちらにかもじはありますか。」
と尋ねている。

 「ハイ、色々有ります。ベールの下から端だけ長そうに出して見せるものなども。」
と早や婦人の注文の物を言い当てた。婦人はかえって気味悪く思ったのか、二の句がつげない。

 こういう場合には、主人の技量はうまいものだ。
 「はい、この頃は色々な所で素人芝居が流行っていますから、色々なかもじが良く売れます。毛の色はどのようなものにしましょうか。」
 婦人は少し安心したらしく「黒い毛の物を」と相変わらず小さい声だ。

 主人は婦人のベールの下に出ている髪の毛が黄金のように艶々光っているのを、素早く見て、心の中で、黒いかもじではこの髪に釣り合わないが、全く姿を変える必要の為に違いないとつぶやいた。これで見ると木綿の洋服も確かに姿を変えるために着ているのだ。

 何か、深い事情がのある婦人に違いない。しかも。その事情は物を言う声の悲しそうに聞こえるところから推察すると、悲しみから出たことだろうとこれだけは推量出来たが、それより深く疑うことは、この人の性格ではない。後は、ただ何家の夫人だろうと怪しむだけだ。

 やがて黒いかもじを取りだし、
 「芝居用にはこちらが。」
となるべく買い易いように説明した。婦人はその中の一番毛の短い物を選び、まだ、何やら言いたそうにもじもじした末ヤッと、
 「この店に眉毛を染める薬が有ると聞きましたが、」

 「ハイ、御座います。これはかもじには必ず付き物の品で、かもじを買う方は大抵黛をお求めになります。やはり黒い物を差し上げましょうか。」
 「ハイ」
 やがて主人の持ち出すのを待ち、一瓶でさえ数年使う程有るのに、二瓶を買って、そして静かに立ち去った。

 主人は口でこそ毎日この様な客が有るかのように言ったが、実を言うとそう度々はない。特に婦人の悲しそうに聞こえる声や、何となく憂いにに満ちた様子など、深く怪しそうに思われ、何者だったろうと、生涯疑問に思っていたが、この夫人は二度と来なかったので、ついにその疑問を解くことは出来なかったと言うことだ。

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