nonohana58
野の花(前篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
五十八 「考えて御覧なさい」
欲しいものを「欲しい」と直接言い切るのは貴族の作法では無いそうだ。貴族らしく上流らしくするには、遠回しに、謎のように、言葉を裏から持っていって、後でよく考えると、成る程欲しいのかと気がつく様に言わなければ成らないそうだ。我々社会でこの様にすれば、「気障(きざ)」とか「嫌み」とか言われるのが、その気障な嫌みなところが上品なのだ。
この気障なことが出来ないために、澄子は平民の子と賤(いや)しまれ、瀬水家に居られないことになったのだ。品子の方はこの嫌みな言い回しがうまいので、一家の人々に敬われ、澄子の後釜につこうと言うまでに漕ぎ着けた。
実際その謎のように言う遠回しの言葉に、力があるのは驚くべしだ。欲しいから下さいと言えば下司(げす)の振る舞いとして何もくれないが、
「イヤ、無くても堪(こら)えられないことは有りません。」
と言うようにからんで言えば直ぐ目的が達せられる。
既に、品子が外から来た縁談を断って、冽の母御に向かって、
「私は子供が好きです。良彦などは我が子のように思っています。」
と言った言葉が驚くべき功を奏した。
是を言葉の通り真っ直ぐに、平民的に受け取れば、
「では、良彦の乳母にして上げよう。」
と返事することにもなる。けれど、良彦が好きと言うことはその実「謎」で心は、
「良彦の父の後妻になりたい」
と言う事に在るるのだ。冽の母御が直ぐ察して、大いに骨を折ってやる気になったのは、いずれ劣らない駆け引きの名人である。
母御はこの日も次の日も冽と一室に落ち合う毎に、これも真っ直ぐに、
「品子を後妻にせよ。」
とは言わない。ただ、品子が非常に好い縁談を断った事を繰り返し、
「あのような縁談を断るとは本当に馬鹿だよ。気が知れないよ。」
と言っては、そうしてため息をついている。馬鹿だ馬鹿だとけなして取り持つ仲人口は我々社会には余りないことだ。
冽もいつかこの謎につり込まれた。
「何だって品子さんは、そのような好い縁談を断るのでしょう。」
と聞いた。母御はたちまち語調を変えて、
「サア、そこがさ、察してみれば、気の毒にもなるじゃないか。この人でなければと深く心に思い込んだ人が有ると見える。幼い時から」
と最後の一句に特に力を込めた。
幼い時からと言えば、冽の外に在るはずがない。けれど、冽はまだそうとは思わない。母御はせき込むように、
「幼いときから長の年月を、一人の為に苦労して、端の人が縁遠いと心配するのにも構わず、そして是非にと申し込んで来た縁談まで断るとは、そこが女の操とも言うものだろうが、今時に品子のような心映えの好い女は、そう沢山は在りませんよ。器量と言い、教育と言い、ホンに私は感心している。」
馬鹿な女と言う謎が早、感心な女と言う飛躍した心に解けてしまった。
冽は少し心が動いた。死んだ澄子の事を少しも忘れない間なら、この様な事を聞いても、気に移らなかったところだろうが、多少の程を過ぎただけ、胸の中に空地が出来たと見える。成る程、教育もあり、心ばえ好いあの品子に、そうまで操を立てられる幸せ者は誰だろうと、ふとこの様な疑問が起こった。
ただ軽い疑問だけではあるが、このため続いて起こる後々の事から見ると、決して軽いことではない。この疑問が実に一家の浮沈、泣いても悔やんでも追いつかないような大椿事の糸口とはなった。
「全体、品子さんに、そうまで操を守らせるのは誰ですか。」
とその疑問が口に出た。母御はこの問を得て、早や事の成ったものと思った。
成る前こそ長く、くどく弁を尽くして説きもしたが、いよいよ成ったと見ると、もう多弁は要しない。口数を聞いてもし気にさわるような文句がその中にあってはならない。とどめを刺すようなただ一言で沢山だ。母御は様子ありげに笑みを浮かべ、
「そのようなことを何も私に聞くことはない。自分で考えてご覧なさい。」
と言い捨てて、座を立った。自分でとの一言は真に画竜点睛と、言うべきだ。冽の心には何もかも納得が行った。