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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    六十四 「徐(おもむろ)に白い手を上げその覆面を掻除けた」

 顔はどのように包んでいても、姿はどのように変えていても、普通、貴婦人と貴婦人でないのとでは、どこか様子で分かる、ただ見ただけで何となく感じられる。

 今入って来た三番目の候補者、河田夫人などが確かにその一例だ。衣類は絹物ではない。毛織物でさえも無い。粗末な麻と綿との布子で、水にも何度も入ったものらしいが、ただその服が粗末なだけ、なお更姿の優美なところが引き立つのだ。

 もしこの婦人が貴婦人として来たのなら、評議員として連なっている婦人中には、或いは妬(ねた)み、又は憎む人があったかも知れない。けれど貴婦人としては来ずに、雇い人の候補者として来たのである。自分たちと交際や何かの上に競争するはずの無い学校の事務長であるから、その点は安心な者だ。従って全体の同情が、直ぐにこの婦人の身に集まった。

 集まるのも無理は無い。憎むにも憎まれないような姿である。静かに一同に黙礼して席に着いた様子などは、こっちから頭を下げたくなる。

 この婦人は自分の教育主義も述べない。経験談も手柄話も持ち出さない。ただ聞かれるのを待っている。評議員の中にはもう何も聞くのに及ばない、直ぐに博士が雇い入れの約束をすれば良いとまでに思った人も居るかも知れないけれど、博士は校長の職責として、そうは行かない。聞くべきことだけは聞かなければならない。やがて二、三の簡単な問いを発した。

 返事はいずれも謙虚である。自分の手柄を誇るようなことは少しも無い。特にその言葉は極めて礼儀正しく、全く女子の教育に当たる婦人が用いるべき言葉で、しかもその声に至っては、まるで天使の喉から出るかと思われるばかりで、深く涼しく一同の心にしみとおるようなような気がする。

 博士は夫人の返事を篤(とく)と味わった上で、又聞いた。
「女子教育についての貴方の経験は、随分長くその道に」
「いや、女子教育と言うほどでも有りません。村の娘たちに、学校のようなものを開いて、一通りの、読み書きや、行儀作法、裁縫、看護法などを教えていました。かれこれ七年ほどです。」

 「どんな考えで女子教育を思い立ちました?」
 これが肝心な問いである。これに対する夫人の答えは実に簡単だ。
 「ハイ、誠に子供を可愛いく思いますので、何の主義でも無く、言わば愛のためです。」

 もし第一の候補者ならば、教育そのものの原理から説き立てたであろう。第二の候補者ならば、必ず今の世の女子教育の不完全な有様を説き、自分一人の力で全国の女子の状態を一変することも出来るかのように答えるところに違いない。

 けれど、ただ一言、この夫人の「愛のため」と言うには届かない。愛でなくて、どうして本当の教育が出来るものか。真に子弟に対する愛さえ充分ならば、外の点は不十分でも、女子の教育は引き受けられる。

 博士はこの返事にことのほか満足した。けれど、儀式だけに、前に置いた書類を見て、
 「そうそう、貴方は石田宣教師の紹介状をお持ちとのことですが、」
 「ハイ」
と答えて二通の手紙を取り出した。一通はこの婦人のいたセプトンと言う土地の郷主が記したものである。

 校長は二通とも読んでみたが、どちらもこの婦人をこの上もなく褒めている。特に宣教師の方は、
 「河田夫人が全郷村に敬われ愛せられたりと言うのは、まだ事実に足りたとは申せません。全郷村はこの婦人の去るのを、天使が去るように惜しみ悲しんでおります。しかし更に高い地位にこの婦人を上せれば、更に広い薫陶を世に及ぼすことが出来ると考え、私を初め私情を抑えて出発を勧(すす)め申します。」
などの文面がある。

 そもそもこの石田宣教師とこの河田博士は同業の知り合いで、かねて互いに尊敬している同士である。こうまでの推薦が有っては、もう尋常の候補者を試験するように、冷淡に試験しているのがもったいない。

 博士は左右の評議員の顔色を一度見た後、婦人に向かい、
 「イヤ、貴方がこの学校に来てくださることになれば、我々一同非常な幸福を得るのですが。」
と言った。評議員の多くは早くこのような言葉が博士の口から出ればよいと心で祈りつつ待っていたほどなので、この言葉を聞いてほっと安心の息を漏らした。

 博士は言葉をついで、
 「けれど、規則ですので、するだけのことはしなければ成りません。どうか貴方の筆跡を拝見したいと存じます。」
と言って、かねて準備してあった紙と筆と墨を婦人の前に出した。

 婦人はここに至って最早ベールのままではいけないと、おもむろに白い手を上げ、そのベールを掻き除けた。

 「野の花」前篇終わり



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