nonohana101
野の花(後篇)
ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
百一 「ハイ先刻休みました」
河田夫人が来たために、大いに良彦の心が安らいだ。けれど病気は治らない。初めは非常な寒気がして、それから徐々に熱が出てきたと言うのだが、さほど熱の勢いは激しくは無いけれど実に頑固だ。
近辺の医者という医者は総て呼び、果てはロンドンから、往診料数百円(現在の数百万円)という名医も呼んだ。もちろん熱を取るだけの薬はどの医者も皆用いた。
一時熱が下がることはあるが、また上がってくる。全く医者の手に負(お)えない病症で、何とも病名を付けることが出来ない。ただ見ただけのところでは一命にかかわる程とは思われないが、熱がやまない限りは体が疲れる。疲れた果てはついには死に至るのだ。
どの医者も一つ納得が行かないのは、良彦の眠りが段々少なくなることである。ほとんど十時間位は途切れなしに眠ることがある年頃なのに、自分で眠たがるということが更に無い。どうにかして充分に眠らせさえすれば、必ず好くなるとどの医者も言い、眠り薬として唯一無二の阿片剤を用いるけれど、効き目が無い。
少し眠るかと思うと直ぐに目を覚ます。それが次第に高じて今ではほとんど目をふさぐということが無い。眠っても目を開いている。
普通の健康な人でも、こう眠りが少なくては、脳の働きが狂ってくる。まして、その不眠に頑固な熱病が伴っているのだから、良彦が時々正気を失ってうわ言を言うのは無理も無い。不眠が続けば続くだけ、正気の時間が益々少なく、熱に浮かされているいる時間が益々多くなる。
もし河田夫人が来なかったら、どうだろう。熱に浮かされた間でも夫人に抱かれていれば大いに静かである。夫人の手を離れると直ぐに暴れる。身をもがいたり声を立てたりする。夫人より他に誰の手でも、良彦を安楽に落ち着かせて置くことは出来ない。
何しろ何日経っても病勢の衰える様子がなく、日に日に疲れが増すばかりだから、父冽も医者に会うたびに、良彦の一命はどうでしょうと言うような問いを漏らす。これに対しても、医者の返事は一つである。眠りが来なければついには死ぬと。言葉は様々に違うが、意味はそこに帰着する。
人窮すれば天に叫ぶとか、もう全く良彦を眠らせる工夫は尽きた。河田夫人のごときは、どうか良彦を眠らせるようにと、夜昼祈っている。父の冽も、あまり日ごろこのようなことを祈った事は無いが、熱心に祈る。このようなわけだから家中、誰一人どうか良彦を眠らせたいと思わない者はいない。
イヤ一人はいるかもしれない。あの品子はどうだろう。これも見たところでは、決して他の人に劣ってはいない。時々病室に見回りもする。また、
「しばらく私が交代しましょう。貴方はその間に少しお休みなさい。」
と言って親切を見せることもある。
けれど、品子に交代を頼むことだけは河田夫人は決してしない。そして品子は人並みに夫を励ましもする。日ごろは継母らしいところが見えるが、良彦の病気以後は継母らしいところは少しも無い。夫と共に良彦の眠りを祈りさえする。
ただこの女の祈りが神に届くか否かは別問題だ。先ず上辺はこの通り、どこまでももっともらしいが、心の底はどうであろう。心の底は余り言わないほうが綺麗かもしれない。
一人で自分の部屋にこもっている時などは顔に心配の色は余り浮かんではいない。もしそれが心配の色とすれば、この女は心配のたびに一人微笑むのが癖と見える。妙な癖である。時々一人で微笑んでいる。それともこれが癖でなければ、今は我が子品彦の天下になると、勝利を見込んで喜んでいるのだ。
これに引き換え、河田夫人の真心はただ驚くほかはない。我が子の為ゆえ当然と言えば当然のようなものの、いくら我が子のためでも他の母にこの真似は出来ない。
良彦が病気のために眠らないと同じように、この夫人は心配のために眠らない。他の看護婦は互いに交代しているけれど、この夫人は交代の仲間には入らない。もし良彦が良くならなければ自分もここで一緒に死ぬという心らしい。
いつ冽が来て見ても、必ず良彦のそばにいる。
「随分貴方はお疲れでしょう。」
と言われれば、
「ハイ、先ほど休みました。」
と答える。丸っきり休まないわけではないが、誰も
「先ほど休みました。」
との言葉は聞くが、
「これから休みます。」
と言うのを聞いた事が無い。
いつ休むのだか知ることが出来ない。これだけの熱心と親切とがあれば、たとえ子でなくても母のように慕うはずだ。ある時良彦は何時もの通り夫人に抱かれていて、
「どういうものでしょう。僕は貴方に抱かれると直ぐ阿母(おっか)さんのことを思い出します。」
と非常にか弱い声で言った。
夫人は可愛さに耐えられない。それとはなしにその額にキスして、
「そう聞くと私も本当に嬉しく思います。」
良彦:「ねえ、夫人、僕が死ぬときは、貴方のこの手を握らせて置いてください。阿母(おっか)さんの手と同じことですもの。僕は阿母(おっか)さんに手を引かれて一緒に天国に行くような心地だろうと思います。」
夫人はワッと声を出して泣き伏した。
「そのようなことを仰(おっしゃ)るものでは有りません。」
と涙声の中でヤッと言った。