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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(後篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十五 「異様な笑さえ浮かべた」

 品子は幾らそのたくましい知恵を絞って、どこをどう考えて見ても、澄子に勝つ工夫は無い。考えるだけ益々工夫の無いことが分るばかりだ。
 「と言ってこれだけは我慢が出来ない。」
とやがて叫んだ。

 実に他のことならどのように我慢もするが、これだけは我慢していることは出来ない。我慢していれば澄子のほうが本当の子爵夫人と認められて瀬水城の主婦人というもとの地位に戻るのだ。そして自分は、エエ、自分ーーーは世にも恥ずかしい私通者となり、自分の子は名も籍も無い私生児になってしまう。

 夫に離縁されるとか、わが子が死んでしまうとか、言う事柄なら、辛くてもあきらめが付くけれど、これだけはあきらめる道が無い。たとえ自分の命を断たれるほどの不幸でも、人に聞こえて恥にさえならなければ、我慢する。

 ただ澄子にこの地位を奪われることだけは、恥も恥じ、そしてあのような者に敵(かたき)を打たれる悔しさ、あのような者を自分より上に上らせ、自分が人間よりなお下の地に落とされるねたましさが、
 「エエ、どうして我慢することができよう。」

 これも良く考えて見れば、一つは自分が招いたこと事であると、得手勝手な心にさえ承知しないわけにはいかない。自分がもし、良彦を殺そうとさえしなかったら、澄子は決してその素性を打ち明けることは無かった。

 河田夫人のままで良彦を介抱して、良彦が死んでも生きても河田夫人のままで、この家を立ち去るところであった。それをこちらから事を起こして、ついに素性を名乗らずには居られないようにしたかと思うと、悔しさのほかに残念で仕方が無いのだ。

 アノ薬瓶を摺(す)り替えようとした時に、澄子が眠っていさえしたら、何もこのようなことにはならずに済むところだったのに、何だって、アアも看病に疲れた目を醒ましていたのだろう。家の中を少しも音をさせずに置いたら、良彦よりも澄子のほうが眠るだろうと手に手を尽くしてかかったのにと、このようなことに愚痴な考えが及んで行く。

 けれど、このように悔やみながらも相手澄子の心根の優しい事にはまた感心しない訳には行かない。自分が死んだと思われたのを幸いに、死人の数に入る心を起こし、今まで辛い月日を忍んでいたとはなんと言う偉い女だろう。

 家を捨て身分を捨ててまで、ただ夫のため、子のためだけを祈って居たとは何たる貞女らしい振る舞いだろう。そして自分の過ちは過ちと言い、真実に私に謝る情をさえ起こすとは、昔の賢婦烈女にも多くは無い。其れも田舎代官の娘の癖にと、こう思えば感心さえも腹立たしさの種になる。

 それに引き換え、私自身のしたことは羨みや嫉みのため、人の妻を苦しめて追い出したのだ。そしてその後に後妻となっていたのだ。わが子にこの家を相続させたいために、継子を殺すまでの心を起こしたのだ。

 手際良くは行っているが人に知られて、感心だと誉められるところは少しも無い。その上に最後の一仕事となって、相手の澄子に見破られた。長年の手際さえただ一夜に消えてしまった。これがもし世の人に知れたら、澄子のほうは誉め言葉に埋まるだろう。そして私は非難の声だけを聞くことになる。

 どうしてこうも澄子が私に勝っているのだろう。どうして私が澄子よりこうも劣ることになっただろう。悔しい、悔しい、何時間か、ただねじけた自分の根性から、様々な煩悩を起こして自分の身を責めるばかりであったが、どうしてもこのままに、澄子の勝つのを見ては居られない。

 なるほど負けることは自分が負けた。世に言う一敗地にまみれるというまでのひどい負け方にはなったが、こうなればもう破れかぶれである。どのようなことをしても構うものかと、腹をくくって考えたが、全くこの上何の手段も無い。だが極最後の考えを思い付いた。

 真に人間が、百計尽きた最後に至って、まだ一計をと言う時には、これが本当の死に物狂いである。理も非もない。情けも義理も人も我も何も無い。真に発狂の状態だから、これが最も恐るべき時である。品子はその恐るべき時に達したのだ。眼のうちに善も悪も無くなってしまった。

 こうなっては今まで乱れに乱れていた心の中が、大風の後のように、ゆったりと静かになった。そして顔に異様な笑みさえ浮かべた。

 「ナニ、構うものか、澄子を殺してしまうまでのことだ。」
とつぶやき、しばらく又目を閉じていたが、
 「アア、ここへ早く気が付かなかったのはなぜだろう。愚かな者であった。」
と言い、非常に良い工夫でも得たかのように自分で自分の胸をなでた。

 そうだ、澄子は夜に入った後で冽に打ち明けると約束した。夜に入るまではまだ十五時間以上の猶予がある。それだけの間にはどのような事でも出来る。万に一つも仕損じが有ってはいけないから、ここで先ずゆっくり眠り、我が心、我が知恵を充分さわやかに、充分明らかにしてかからなければならない。

 ドレ、寝よう。心が明らかでさえ有れば、仕損じることは無いと、世にも恐ろしい言葉を残して、自分の寝室に入った。実にあきれ果てた度胸ではないか。

 このように落ち着いて、このように冷淡に人を殺す計画をするとは、幾ら死に物狂いにしても、普通の人には出来ない。
 このごろの刑事人類学と言う学問で類別すれば、必ず人を殺すような者は、一種の変わった心質を持って生まれているのだ。人間ではない、先天的な罪人だ。

 これで見るとただ昨夜初めて良彦を殺そうとしただけでなく、そもそもの初めから良彦を殺しにかかっていたのかもしれない。良彦の得体の知れない病症も或いはこの品子が、少しずつ毒薬を与えて、そろそろと殺しにかかっていたのではないだろうか。

 少しづつ飲ませれば、医者の目にさえ見破ることが出来ないような毒薬が随分ある。けれどこう申す記者は証拠が無いのに人を悪人にするのを好まない。医者さえも判断の出来ないものを、記者の想像で品子の仕業だとは言い切れない。これはどっちとも読む人の判断に任せて置くのだ。

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