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野の花(後篇)
トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ口語訳
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
百二十 「別に一つの任務」
品子は今まで、瀬水子爵夫人と言う身分のために、勿論尊敬されていたけれど、余り誰からも愛されてはいなかった。されどこのように急に変死したため、聞く者は皆悲しんだ。悲しんだよりも驚いた。
悔やみの人が引きも切らない。弔意の手紙は雨の降るように瀬水城に流れ込んだ。特に領地の人民に対しては多少の慈善事業も企てており、又領地内外の人でも一旦瀬水城へ客として来た事もある者には、その逗留中に万事によく行き届く夫人として記憶せられていた。
それに又、夫冽の家筋も冽自身も広く世に知られているのだから、中には真実に品子の死を惜しむ人も有った。
とにかく、葬式は盛んに営まれることになった。葬式までに品子の死骸を手に掛けたのは、総て河田夫人の澄子だ。
死骸の頭の毛をとかして、結いなおしたのも澄子、湯灌(ゆかん)を使わせたのも澄子、そして棺に納めて、その棺に香料などを入れ、死骸の手に花を握らせなどしたのも総て澄子である。普段よほど親密な友達かなんぞで無ければ、こうまでは出来ないと誰も言った。
澄子が最後に死骸の耳にささやいた言葉は、
「品彦のことをお気遣いないように。この後は私が良彦よりも品彦を大事に思いますから。」
と言うのであった。品子にもし霊があれば、この親切に深く感謝しなければならない。
葬式は死んでから四日目であったが、その盛んな様子はくだくだしく記さなくても、読者の推量に任せておく。この日冽は貧民に多くの施し物をした。そしてかの馬車で即死した御者の遺族には、特に後々まで少しも困ることの無いように、恩給の年金をやることにした。このような行き届いた計らいは誰も感心しない者は居なかった。
ただ、品子の死んだことは、良彦にだけは知らせずに置いた方が好いとの医師の注意であったようだ。病が峠を越したとは言え、実に大切な容態だから勿論このようなことで心を騒がせてはならない。けれど、実際隠し通すことは出来なかった。
家の中のただならない様子に、良彦は疑いを起こし、父冽に何事かと問うて止まない。言わなければかえって心配させると思われたため、冽はついに打ち明けたが、およそ品子の不親切な根性を良く知っているのは、澄子の次に良彦である。
邪魔にされ継子扱いにせられ、いじめられ、その果てが命を取られようとまでしたのだもの、知らずに居られようか。けれど、流石に澄子の子だ。少しも恨みは感じなくて矢張り真実に悲しんだ。このような子が他日瀬水城の主人になれば、下々に対して実に寛大な主人になるに違いない。
しかしこの悲しみのために、良彦の病気の回復は、果たして医者が気遣ったとおり、非常に遅れた。これ位の年頃だから、直るとなれば意外に早く直りそうなものなのに、中々そうは行かない。ほとんど俗に言う「こじれた」状態になった。
医師は冽に忠告した。
「旅行が出来る状態になったら、直ぐに転地する以外は有りません。」
と。冽は注意にしたがって、早く良彦が転地のできるまでになればと、そればかりを待っていたが、待ち遠しかったけれど、ついにその時が来た。
この間に最も哀れむべき者は澄子である。相変わらず河田夫人のままで良彦の枕元に付いてはいるが、一日一日に、その地位が辛くなる。何時までも夫を欺いていて良いものだろうか、と言って今更打ち明けて決して褒められることとは思われない。
何でこうまでも夫を欺いたのか、愚かな女だと言われ、自分のその時の苦労は察せられずに、かえって薄情とまで思われかも知れない。
それも構わないとしても、品子の生きている間ならともかく、その死んだ今となって打ち明けては、品子の不幸を自分の幸いとする様な気味もあって、人からどのように思われるかも知れない。
本当にどうすればよいかと、考えに考えを重ねても、決心が付かない。最後に至って、ついに打ち明けずにいる以外は無いと思うことになった。
打ち明けさえしなければ、もう何事も無しに済むのだ。そもそも始めの決心が、生涯この世から隠れると言う事に有ったではないか。幾ら辛くてもこの決心は翻(ひるがえ)さないと心に誓った。今更その誓いを破ってしまう言われは無い。
辛くても自分から出た過ちだから、過ちに対する自然の罰と思って、その辛さに服さなければならない。そうだ、自分がそれに服しさえすれば、この家にも何の変動も無く、自分は河田夫人のままで、再び学校に帰り、矢張りこの家の近くに居て、他所ながら良彦を守り、夫の安否をも知ることができ、かつは品子の霊に約束した通り、品彦の後々を心配して行くこともできる。
どうしてもこの生涯を河田夫人で送る以外は無いと、ここに又二度目の決心、イヤ決心のようなものを起こした。澄子がこの決心を守るのにどれほど忠実なるかはこの話が終わる時までには分る。
かくて幾月の後、ようやく良彦が転地のできる時が来た。冽自らこれを引き連れ、スコットランドの山間へ行くことになった。ここはかって、冽が澄子と共に、婚礼後の最も楽しい月日を送った土地である。
そして瀬水城の留守は家扶家令で沢山だけれど、冽の母御が遠い旅行に耐えられないほど、年のため衰えているので、踏みとどまることにして、河田夫人は冽から別に一つの任務を頼まれた。
それは品子の子品彦を留守中、守(もり)をすることで、瀬水城から程遠からぬ或る景色の好いところがあるので、そこにある一軒の空き別荘を借り、ここに河田夫人が品彦を連れて行き、冽の帰る頃まで預かっていてくれということにあるのだ。夫人は喜びも悲しみもせずにただ命のままに承知した。
このように計らう冽の考えは、何しろこの夫人が言葉では言いようが無いほど良彦の看病に尽くしたから、お礼と言う気持ちでしばらく夫人に、静かな土地で気楽に保養させてやるつもりなのだ。
それには一人では寂しいだろうから、夫人が子供好きというところを見込んで品彦を、いわば気を紛らわせるために預けて置くのだ。