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野の花(前篇)

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トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           十三 「フランスですかドイツですか」

 物事は初めが肝腎だ。初めにもし失敗をすれば、その失敗が気になって次の事もうまくできなくなる。こうすれば笑われはしないか、ああすればし損じはしないか、とますます心が萎縮して何事も不出来なくなり、果ては全くの愚か者の様に見えることになる。

 澄子は着物の間違いが第一の失敗である。これのために気が遅れて、その歩き方さえ普段のようにしとやかには行かない。何となく自分で自分のふつつかさが感じられる。やがて、食堂に入ると総ての有様が目を驚かすばかりに立派で、ここでこそ間違いをしてはならないとの気持ちが先に立つ。その気持がかえって邪魔をする。

 どの席にどう座れば良いのか、我が家で父と一緒に食事した場合とは違うから、先ず誰かが座るのを見て、いや、それとも夫が指図してくれるかしらと、極少しの間だが躊躇した。この躊躇が非常に目立った。もとよりこの家の主婦人となったのだから、誰よりも先に自分で主席に付かなければならない。付かないうちは、他の人は待っているので、手本を見せてくれる筈がない。

 母親は少し見かねた様子で、「サア、子爵夫人、お席へ」と促した。その言葉さえ、最前「我が娘」と言い、「澄子さん」と呼んだ時より余ほど冷淡に聞こえる。
 澄子は返事の仕方にも迷った。「ハイ、イイエまあ」と口の中で、どっちとも分からない言葉をつぶやいた。

 そばでこの様子を見ている品子は、気の毒そうに澄子と冽の顔をじっと眺めた。この眺めかたが、品子のような駆け引きのうまい女でなくては到底出来ないところだ。冽の目には非常の親切から気の毒に思っての事と見え、澄子の目には非常な愚弄のように見えた。

 冽は結婚して三月の間、イヤ、今が今まで、澄子に塵ほども欠点は無いだろうと思っていたが、この時初めて「もう少し物事を心得ていればよいのにと」と思った。実はその物事を心得ていない所に惚れ込んで我妻にしたくせに。

 実に人の心は妙なものだ。初めは澄子の初々しいところを見ては、社交界に悪ずれした貴婦人達の出過ぎた様子は二目と見られないとまで思っていた者が、わずか三月の後には、早やその初々しさを傷のように思うことにもなる。

 冽は少し冷ややかに、「サア、貴方が席に着かなければ、誰も着きはしない。」と言い、手で指し示すようにして席に着けた。針のむしろに座る想いとは、この時の澄子の心であろう。勿論、この様なわけだから、日頃なら、何の雑作もなく出来ることまで、うまく出来ない。けれど、先ず否応なしに済むことだけは済み、どうやらこうやら食事は終わるまでに漕ぎ着けた。

 実を言えば頭痛がするとでも言って、我が居間に引っ込みたいところであるが、そのような駆け引き多い教育は受けていないので、これから又も、元の応接室に連れ帰られ、寝る時間の来るまでは、試験をされなければならない。応接室に帰る廊下の間も依然として我が服の裾が鳴っている。

 そして、応接室に入ると音楽の所望となった。実に辛い。初めての席で声を出して歌うと言うことは、余ほど人擦れた女で無ければ出来ないことだ。再三、辞退はしたが許されない。もしや、夫が何とか言ってくれるかと思ったけれど、それも言ってくれない。仕方なく、泣く泣くとはこの様な場合の形容だろう。

 真に泣くほどの思いで、音楽の台に向かった。心弱くてはますます引けを取るからと、自分で我が心を引き立てるけれど、ただ引き立てたいと思うばかりで、引きは立たない。そして、ようやく声を出すと、我が声とは思われない艶気のない、声が異様に震えて出る。これでは歌うのではない。泣くのだと、自分で情けなく思い、やっとのことで一曲歌い終わり、台から降りて絹のハンカチで額を拭った。率直に言えば、残念ではあるが、余りよい出来ではなかった。

 けれど、世の中には随分不躾(ぶしつけ)な声を聞かせる婦人がいる。自分の声が先天的にレールからはずれているのに容赦もなく声を張り上げて、そして、後で人が褒めないのを不満に思い、税でも取り立てるつもりで、「どうも、歌いにくい歌で」などと暗に褒め言葉の催促をする向きもある。それらに比べれば、澄子のは不出来とは言え、上出来の中であった。 

 冽は母に向かい弁解するように、「少しも場所慣れしませんから」と言った。母は単に、「そうね、でも学校で教える課程だけは終えたと見えるわね。」学校では良かろうが座敷では歌わせられないと言う、見下げた意味を帯びている。澄子は無言でいるのは作法ではないだろうと思い、品子に向かい、「どうか貴方のをお聞かせください。」と頼んだ。

 品子は鼻のの先で軽く笑った。貴方の歌と同じ席で歌うものではありませんという心らしい。冽も言葉を添えた。「どうか、品子さん、一曲お聞かせください。」実は冽から所望されるのを待っていたのだ。「長いこと歌っていないので声が震えるかも知れませんわ。」と少し当てこすって立ち、台に登ってちょっと澄子の方に向き、

 「フランスのにしましょうか、ドイツのにしましょうか。」澄子は顔を赤くして、「お恥ずかしながら、英語の外は知りませんから。」「そう、そう、遂忘れていて失礼しました。」少しのことにも澄子の無学を、それとなく目立てさせなければ気が済まないと見える。

 真に、品子はこの声を聞けと言わないばかりに、歌い始めたが、その声はいささか太い。太いけれど良い声で、特に第一流の先生について十分練習したのだから、澄子のとは比べる所でない。

 その歌はある失恋の曲であったが、全く聞く人を動かした。もう一曲、もう一曲と一度は冽から、二度目は母親から所望され、三曲まで歌い、もうこれで十分、この身と澄子との優劣を示したと満足してか、台を降りた。

 余ほど気持ちにゆとりがあると見え、汗もかかず、額を拭った澄子の様子とは大違いで、場合相応に身をこなし、「イヤ、澄子さんの後で恥ずかしい」と誠しやかに謙遜して座に戻った。

 勿論、顔とかたちとは澄子に及ぶはずはないが、そのほかのことでは全く澄子を輝き負かしたと言うものだ。澄子はひたすら感心し、「どうすれば貴方の様なお声が出るのでしょう。」母親がそばから、「イイエ、品子さんの音楽は別ですよ。」と答えた。別とは何という意味だろう。田舎者には真似は出来ないと言う心らしい。
 
 兎に角、しかし、この場は済み、各々我が部屋に退く時間となった。澄子はその身のふつつかを切に感じ、地獄の釜から出る思いでここを出た。冽も一緒に出たけれど、何か考えていると見え、口をきかない。澄子もただうつむいて歩くのみだった。

 やがて、澄子の部屋の真近に行くと、冽は興のない声で、「今夜の貴方の服装は少し思い違いをしているように見えるなあ。」と言った。澄子は言われなくても気がとがめてならないのに、この言葉を聞いては、耳まで赤くなり、

 「どうか、気永くお教えください。」と言った。顔は上げられなかった。上げれば目に涙が溜まっているのだ。



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