nonohana15
野の花(前篇)
トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ口語訳
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トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ口語訳
野の花
十五 「御覧なさい品子などは」
一口に我が儘(まま)と叱り付けるのは余りにも厳しいけれど、澄子は黙ってしまった。ところがまた叱られるようなことが起きた。
客の中に一人、うるさく澄子につきまとう人がいた。幾ら客とは言え、人の妻である者に、情夫か何かのように、恋慕の様な素振りをするのは失礼だと澄子は思った。けれど、たしなめる訳にもいかないので、黙って、なるだけ避けるようにしていたが、黙っていればますます図に乗り、果ては、紙切れに、恋歌らしいものをしたためて、澄子に渡した。
澄子は我慢が出来なくなって、そのままその紙を引き裂いて捨ててしまい、そうして少し荒々しく立ち去った。後で聞くと、この客はこの様なことをするのが悪い癖で、悪洒落ばかりする者と、ほとんど通り者になっていて、ただ身分が高いために、どこの宴会にも招かれはするけれど、貴婦人達はなるべくこれを避け、紳士は聞いてもただ笑い草として済ますそうだ。澄子はこれを知らなかった。
澄子が何か普通と違ったことをすると、どこで見ているのか知らないが、きっと品子がそれを知っていて、後で意見の様な説教の様な文句を聞かせる。この時も、品子はやって来て、「澄子さん、貴方ももう貴婦人の中ですから、」と言いかけた。もう貴婦人の中などとは、十分侮辱した言葉だが、冽(たけし)がいないときは、いつもこの様に言い出すのである。
「貴婦人と言う者は、人に対して荒々しく立腹の様子を見せるものでは有りません。貴方自身が笑われるだけでなく、冽さんまで笑われますから。夫の為だと思って少し慎んでください。」余りに差し出た言い方だと澄子は思った所へ、丁度冽が来た。
言葉の端を聞きかじったと見えて、「何事です、品子さん」と問いかけた。「いえね、人の前で荒々しく立腹したり、物を裂き破ったりするのはみっともないと、少しご注意を申しましたの。」と言って、事の次第を詳しく話した。
話は全く事実の通りだが、そこが、例の雄弁で、いかにも澄子のしたことが、夫の顔にもかかわるかのように聞こえた。澄子は、夫が私に味方し、私の行動を賛成してくれるかと思ったら、あにはからんやだ。
少し機嫌悪そうに、「そのようなことは、もう少し自分で気を付けてくれれば良いのに。」と嘆息した。こう独り言のように嘆息されるのは、直接叱られるのより辛い。今まで口答えなどしたことはないけれど、この時ばかりは、「でも、他人の妻に戯れるとは、あんまり失礼ですもの。」
「いや、貴方はまだ知らないが、あの紳士は、平たく言えば馬鹿者なんだよ。けれど、馬鹿者にせよ、、真に貴方が立腹するほどに戯れたとならば、かつ、そのことが外の客にも知られたとならば、夫の身分として、私が無言で居るわけにはいかない。アノ紳士にきっと文句も言わなければならない。そうなれば、私と貴方が無益に人の口端に掛かると言うもの。エエ、そうだろう。社交界に立つ夫人はただ一寸した顔つきで、このような紳士を退ける事を知っている。ご覧なさい、品子さんなどは、独身だけれど、誰からも無礼を加えられたりしないではないか。」
意見をされるのは腹は立たない。ただ、自分の身の至らないためとあきらめる。特に、夫の口からの意見は有りがたいと思う。けれど、そのたびに、品子を手本に持ち出されるのは、実に辛い。おとなしい澄子だが、「そうですか。」との一言を残して、自分の部屋に泣きに行った。
今まで、真に一身同体と言うような夫婦仲であったが、この時から、薄紙の様な隔てが出来た。それでも、まだ世間普通の夫婦仲に比べれば睦まじいけれど、薄くても、隔ては隔てだ。無いのに勝ることはない。
総て、この様な有り様で、品子の権力が段々幅を利かせ、澄子の言うことは余り通らない。およそ一年ほどの間に品子の言葉を退けて自分の言葉を通す事が出来たのは、後にも、先にも、たったの一度である。
もっとも、それは、澄子が自分の侍女を雇い入れることなので、実は品子が口を出すべき事柄では無かったのだ。(でも、品子は口を出した。)
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