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野の花(前篇)

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トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           十七 「貴族には貴族の名前」

 夫婦の間に一度少しの隔てが出来ると、その隔ては段々ひどくなるのに決まっている。妻の不機嫌が夫の癪にさわり、夫の癇癪がまたますます妻の不機嫌となる。こうなると、互いに火の手が強まり、ただ高じる一方だ。

 澄子と冽の間に出来た薄紙の様な隔たりでも、事に触れ、折に触れて段々厚くなった。澄子は心の中では耐えず心配していたが仕方がない。自分一人の力ではこの隔てを、かき消す事は出来ない。

 もし、このままに捨てておいては、今でこそ、ただ当人と当人とが、感じで知るばかりだが、ついには人の目にまでつくことに成りはしないだろうか。全く成り行きが心配なほどであったが、一時、この隔てを忘れさせるような、事件が起きた。けれど、実際忘れたかどうかは後で分かる。

 この子爵家の広い領地に幾百の人家がある。今日はその家々が残らず国旗を立て、目出たそうに祝意を表している。そして、村の教会堂もわざわざ喜びの鐘を打ち鳴らした。子爵家の当主瀬水冽も満面に笑みを浮かべている。太陽さえもいつもより、晴れやかに照り輝くように見える。

 何の為だろう。この子爵家に総領息子が生まれた。萬18歳と何ヶ月で初めて母となった澄子も、いたって健やかと言うことで、その子は、玉のような愛らしい顔つきだと、誰が言いふらすともなく、聞こえ渡った。冽は妻の可愛さが初めて分かった様な気持ちがすると顔の面に書いてある。

 一人不機嫌なのは品子だけだった。嫉妬の念は恐ろしいもので、この事を聞くと、どうしても平静な顔でいることは出来ない。自分の部屋へ閉じこもって、一人で泣いたり怒ったりしている。日頃の美しい立派な顔も、夜叉の相とは変わって、そして、口に唱えることは、「エエ、これであいつの身分が決まった。悔しい、悔しい。」と言うことだった。人の幸福が悔しいとは、さてさて因果な事ではある。

 この翌々日である、澄子の所から、わざわざ冽の部屋に侍女が使いに来て、「お話が有りますので、どうかお顔を、」との言葉を伝えた。冽は、「おお、大層改まった使いだな。」と笑いながら澄子の部屋に行ってみると、澄子は赤子を嘗(な)めまわさぬばかりにしていたが、起き直って、「私はこの子の事について、貴方に折り入ってお願いがあります。」と言い出した。

 結婚して今が日まで、こうして下さい、ああして下さいと唯の一度も自分から、言ったことはないのに、改めてこの様に言うのは、余ほど思い込んだ事柄と見える。

 「改めてそう言わなくても、貴方の望みならば・・・、」「はい、何でも叶えて下さるのは知っていますが、この事だけは特にお願い申します。」、「この事とは」、「この子の名前です。どうか、名前の中に『時』と言う一字加えて下さい。初めでも終わりでも良いですから。」

 言いさえすれば、喜んで受け入れられると思っていたが、冽は何故か不賛成のように躊躇した。「ご存じの通り、私の父は時正、兄は時之介と言いました。私は名前に時と言う言葉が有るとそれだけで懐かしいように思います。」

 冽は唯考えるばかりである。澄子は三度言葉を継いで、「もし、時の字が付いたなら、父もどれほど喜びましょう。どうかこの願いはお叶え下さい。」冽は独り言のように、「貴族には又貴族らしい名前が有るので」と言うばかりだ。

 貴族には貴族の名前、そう言われれば、お前の父のごとき平民の名を、加えることは出来ないと、言うように聞こえ、、ひがむ事もできるが、澄子はひがみ根性などと言うことの絶えて無い清い世界に育った女なので、そうは思わない。ただ熱心に、

 「貴族にも時と言う字の付いた名は、随分有るだろうと思います。外の字と組み合わせれば、必ず良い名が出来ると思います。良いでしょう。ね、ご承知でしょう。」誰がこの場合に於いて、この願いに抵抗する事が出来ようか。

 しかし、冽は抵抗した。彼は非常に迷惑な顔つきで、「もっと早く言ってくれれば良かったのに。」
 一昨日、生まれた子の名前を、まだ産所から出ない母の口から今日言うのに、もっと早くとは、これより早いことが有るだろうか。

 澄子は納得出来ずに、ただ、冽の顔を見詰めている。冽は何とか、もっと良く説明しないわけにはいかない。「実は、母上や、・・・品子などが既に相談」と言いかけたが、流石に言いにくいと見え、少し口ごもり、

 「品子が言うには、この子の顔が、今も肖像画に残っている、この家の先祖のうち、良彦と言う方に似ているから、そのまま、良彦と名付けるのがよいと言って、お母さんにも同意を求めていたから、」

 こう聞いては、いくら、心根の清い女でも、快く思う事は出来ない。この様なことまで品子が指図するかと思えば、知らず知らず顔も赤らみ、「この子は品子さんの子では無いじゃありませんか。」と今までになく、恨みを帯びた様な言葉を漏らした。

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