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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           二 「髪の毛二房」

 命がけの使いを引き受け「ご心配は掛けません」とただ一言に言って退いた少年の勇ましさに、誰も彼も感心した。なるほどこれなら十分使命を果たすだろうと、大事な密書は間もなくこの少年陶村時之介の手に渡された。

 やがて彼は途中の警護として五人の従卒をつけられて、日の暮れぐれに出発した。その中の一人は何か途中で事があったらいち早く逃げ帰って報告せよとの命令を受けていた。

 わずかに五人とは言え、之を引き連れて時之介ははや士官にでもなった心地がし、特に瀬水中尉から「大英国の運命だぞ」と言われた言葉が耳の底に鳴っていて、一国の運命を我が双肩に担ったかと思うと、口にこそ出さないが、うれしさが眉宇の間に躍如としてある。

 ことによると命を捨てなければならない、などと言う恐れは微塵もない。何の命一つが、国のためだ、惜しいものか、この密書を本営に届けさえすればと、いにしえの武士も恥ずかしいほどの健気さは、屈託を知らない年少者の外にはない事だ。

 既にして道を半分も行き、夜の九時間近の頃、とある山坂に行きかかると、果たして賊が密書を奪い返すため待ち伏せしていて、そうして左右の茂みからバラバラと襲い出た。

 数ははっきりとは分からないが、十四五人はいるだろう。命令通り一早く逃げ支度をしている一人を除いて、こちらは同勢五人、賊は確かに三倍にも近い。到底かなうはずはない。さんざんに打ちまくられ、一人、二人、三人、四人、順々に戦死した。

 時之介も額を始め、体中にあまた傷を受けたが、四人の従卒が力の限り保護してくれたので、一番後まで生き残った。普段の場合ならば、そのまま倒れて戦死者の数に入るところで有ろうが、ただ、「国家の運命」と言う事が、心に有るため、気が確かで、四人目の人が倒れると同時に一方の草むらに身を隠した。敵も七、八人は死んだようだ。

 幸いにして、敵の追求に捕らわれもしないで、物陰から物陰と、喘(あえ)ぎ喘ぎたどって夜の十二時にマドラスに着き、本営の門を叩いた。この時の守備隊長は有名なビテー将軍あった。

 将軍はこの頃の物騒にまだ寝ておらず、部下の老士官等を集め、何か評議をしていたが、そのところに番兵数人が死骸のような一物を運んできたので、灯火に照らして良く見ると、血にまみれた美少年だった。しかも、余ほど血の気を失ったものと見え、顔は真っ青に色さめている。

 「何だ、この服装は、どこかの支隊に属する士官候補生だが。」少年は死んではいない。この声に目を見開き、力のない手を震わせて、胴巻きから密書を取りだし、「支、支隊長の命令です。」と言ったきりである。

 丁度ここに、先にいち早く馳せ返った従卒の報告を聞いて瀬水中尉が一小隊の部下を引き連れて、追いかけてきて到着した。中尉の口からこの少年の勇ましい話しも分かった、居並ぶ老武士ら誰一人感激しない者はいなかった。

 中でも、ビテー将軍は感極まって一同を顧み、「何と同僚、我が英国が列国に自慢するのは決して財宝や、富や植民地の広さではないぞ、ただこのような勇壮義気の子供がいる一事でだ。」と言いながら、日に焼けた頬へはらはらと涙を伝わらせた。この声が聞こえたのか時之介はニッと微笑んだ。

 勿論助かる筈はない。けれども二時間ほど生きていた。その間、かの瀬水冽(たけし)中尉は、初めから我が引き連れていた候補生かと思い、またその日頃甲斐甲斐しかった様子を思うと、去るに忍びず、枕元に座っていたが、死に際となって、時之介は目を開いた。

 そうして中尉の顔を見て、虫の声より細い声で、「中尉、中尉、どうか貴方のような英雄になりたいと思いましたが、ーーー」とこれだけ言って後は続かない。真に時之介は常からこの中尉を我が心の中の唯一英雄とあがめていたのである。また、この中尉は或る点に於いて、随分英雄と言われて良い人である。

 ややあって、時之介はまた目を開いた。「どうか、中尉、国へ帰ったら、父と妹に、時之介は兵隊らしく死んだから嘆くなと言ってください。」中尉は目をしばたき、「後のことは、確かに瀬水冽(たけし)が引き受けた。安心せよ、安心せよ。」と言って片手を差し出すと、時之介はこれを握り、英雄に手を引かれて冥界の旅に入るように思い、心強く感じたと見え、笑顔のままで、憐れむべき異域の鬼(き)とはなり終わった。

 中尉は時之介のこの死に際の言葉が深く心に徹したと見え、彼の死骸から、髪の毛二房を切り取り、そうして一房はその父へ、一房はその妹とやらに、他日を帰国の時、手渡しする為、深く自分の肌身に収めた。これだけが話の始まる前の一節である。




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