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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

          二十一 「貴方の様(さま)は不敬だ」

 いよいよ時刻が来て。宮廷に出た。曳衣も花冠もどうやらこうやら澄子の体に馴染んだ。女王陛下の前へ澄子、品子を連れて出るのは、呂岸公爵夫人と言って、当時第一流の社交家と仰がれる方である。

 澄子は宮廷の控え室で、初めてこの方に会って驚いた。年は六十にも近いのに、頬の辺りの皺を白粉(おしろい)で塗り隠し、そしてほとんど十六,七の少女かと思われるほど、派手に着飾り、既に血の気の枯れた顔で十六,七の少女と同じように笑ったり、同様に赤らんだりしようと努めている。ただ、この一事で、社交とは虚飾と偽りの塊で有ることが分かる。この中に交わるのはかえって気恥ずかしい。

 しかし、あたりの、荘重な有様に、澄子はただ気後れがして、何の考えも浮かばない。先ず、この夫人に従って、大広間に出、とある柱のそばで休んでいた。見ると、満場、綺羅の戦いとも言う有様で、美々しい人ばかり群れている。何をするのか右往左往と、ただどよめいて、病後の身には蒸せかえるような思いがする。

 どうか気を落ち着けて、失敗のないようにしたいと、しばらく首を垂れて居るうちに、我が横の少し離れた一群から、「瀬水子爵の夫人とはどれだ。」と問う声が聞こえた。さては、我が身の噂かと、そちらの方を見ると、

 A紳士;「アレだろう、呂岸夫人のそばに立っている。」、B紳士;「ナニアノ病人じみた方ではない、桃色の服を着ている立派な方だ。」、C紳士「そうそう、僕も先日子爵があの桃色を連れて買い物をしているところを見た。仲の良い様子は大変だぜ。」

 確かに品子を冽(たけし)の妻だと思っている。我が身はただ「病人じみた。」の一言で言い捨てられるかと思うと非常に心細く思っている澄子は、今の身分が味気ないように思い、我知らず涙を浮かべた。

 品子は早くも見て取って、「何を泣くのです、澄子さん。」と呂岸夫人の耳にまで訴えるように言った。夫人も気が付き、「陛下の前に涙など浮かべて出る人が有りますか。」澄子;「何、泣いているのではありません。ついーーー」

 品子はわざと小声で、「だから失敗すると私が気遣うのです。今日、もし少しでも失敗をすると冽さんの顔にもかかわり、呂岸夫人にも迷惑が掛かりますよ。」と脅し、まだ足りないのか、「私まで心配でなりませんよ、ああ、本当に貴方と一緒に来なければ好かった。」と悔やむようにため息をついた。

 澄子はただ胸ばかり騒ぎ、とても陛下の御前から何の失敗もせずに引き下がって来ることは出来ないだろうとしきりに虫が知らせる様な気がする。そのうちに、自分の順番となった。

 やはり、呂岸夫人に従い、謁見室の方に進んだ。今度はどのような人の番かと誰もが注意しているから、澄子の進む様子を見ると、大勢の人が口々に何事かつぶやき、場中に一種の電気が波動するように思われた。

 勿論、満場の貴婦人令嬢のうち、美しいと言う点では澄子にかなう者は一人もいない。病人じみて見えても、真に絶世の美人である。「誰だえ、あの美人は」「三十年来、この様なのが、謁見に出たのは見ない。」「どこにどのような逸物が隠れているか分からないものだ。」などと言う声が諸所にささやかれた。

 もし、これらの誉め言葉が澄子の耳に聞こえたなら、いくらか気が引き立ったかも知れない。しかし、澄子は、胸が板のようになり、ただ、陛下の御前に出ると言う思いばかりで、外のことは目にも耳にも入らない。

 陛下の御前に出て、御声を下し賜われば、恭しく答礼を申し上げなければならない。御手を受けてキスをし参らせなければならない。この様なことが澄子に勤まるだろうか。やがて、御前には出た。呂岸夫人から澄子、品子の名を申し上げた。

 澄子は懿徳(いとく)盛んなことに恐れ、自ずから頭を垂れた。ただ眩(まぶ)しいような気がして、陛下が今正に我が顔をご覧あらせらていると知ったが、目を上げることさえ出来ない。これに引き替え、品子は敬と愛とを湛(たた}えたような、笑みを浮かべ、陛下の御顔を眺め上げた。麗しい御声は両人に同じように掛かった。

 「おお、美しい子らよ、年々参廷して、忠良な様子を見せよ。」との非常に有り難い仰せで、左右の手を双方に差し出された。両人は一様に膝まづいて、これを受けたが、澄子は手が震えてキスしまいらせることも出来ない。品子は式の通りにした。

 さらに、陛下は答礼をお待ちになっている様子だったが、澄子は声を出すことも出来ない。俯いたまま何やら口を動かしただけである。品子は非常に素直な声で、「盛恩身に余ります。陛下よ」とはっきりと申し上げた。

 もし、君に対する忠愛の心を比べたら、忠愛の語が立派に口に出る者が、それが出ない者に優(まさ)ると言う筈はない。ただ、おののき、震えている澄子の方が、臆面の無い品子よりも遙かに盛恩の有り難さを感じている。

 けれど、儀式の上から言えば、品子が遙かに澄子を上回った。澄子の方は全くの「不出来」であった。陛下の御心にこの「不出来」と「上出来」とどちらを好ましいとされるかは、到底知る由もないが、澄子は深く心に我が身の修養の足りなさを感じ、ひたすら恐れ入って顔も上げることが出来ないまま、引き下がった。

 品子は人々に自分の「上出来」を吹聴するように、引き下がった後も左右を見まわした。澄子は品子に顔を見られるのが辛い。呂岸夫人に顔を見られるのが辛い。何時までも俯いている。

 品子は追求するように、「澄子さん、貴方の有様は不敬でしたよ。」と言い、更に呂岸夫人を顧みて、「ねい、夫人、陛下が御気色を損じたかと思われましたが。」
 兎に角にも、呂岸夫人は流石である。

 「イイエ、陛下は色々な謁見にお慣れですから、何ともお思いは有りません。先年、やはり私が連れて出た一少女は、陛下の足元で声を出して泣きましたが、後で陛下は私に向かい、「あのようなのが必ず忠臣の母になると仰せられました。」

 この言葉を聞いて澄子は、勿体ないとの感に打たれ、涙にむせんだ。品子は非常に不満だ。この不満を以て、後で澄子の不出来をことごとく冽に告げた。



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