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野の花(前篇)

トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

 2010・4・8

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

           
             二十五 「運の尽き」

 イタリアのフローレンス(フェレンツェ)の山の手に閑静な別荘がある。前にアルノという河を控えてこの上も無い景色を占めている。この別荘は昔からフローレンスの名所の一つに数えられ、絵にも写真にも写して売られ、ガイドブックなどにも「バシナイ荘」と記して出ている。昔、バシナイという豪族が贅沢に隠居所として建てたそうだ。

 この別荘の一番晴れやかなテラスに立ち、ぼんやりとして、河の方をを眺めている美人が居る。多分、人を待つのだろうが、顔に一方ならない悲しみの色が現れているのは、まだ若いのに余ほど苦労したものとみえる。

 「アア、良彦はどうしたのだろう。品子さんが連れて行ってまだ帰らないが。」
と言うのがこの美人の独り言である。この美人は誰、瀬水冽(たけし)の妻、澄子であることは記すまでもない。

 澄子が大パーティーの大広間で気が遠くなってから、早や、数年が過ぎた。その時から、澄子は一年余りも健康が優れず、翌々年、再びロンドンに連れられて行ったが、社交という事が頭から嫌いなため、余りもてはやされもしない。もし、澄子ほどの容貌で、社交ということが嫌いでさえなければ、自然に一通りのお世辞も言えるようになり、それこそ、全社交界を足元に踏みにじるほどにもなれる。

 冽(たけし)の心はどうにかしてそうしたいのである。自分の妻ならば、簡単に社交界の女王とたてられることができると、この様に思うのだ。けれど、本人はそれが嫌だから、友達もできない。勢力も得られない。かえって悪く言いたてられる。

 総て、社交を嫌う人が社交界から嫌われるのは自然の成り行きと言うもので、特に、澄子ほどの美人となると、これを嫉んではね除けようとする人がいる。えてして、この様な人に加担者が多い。中には、これのために冽(たけし)をも疎んじ、自分の身分よりも低い女と結婚したなどと悪し様に噂する者さえ有る。

 その翌年もまたロンドンに出たが、同じ事だった。ロンドンに出るたびに、夫は機嫌を損じ、妻は健康を害して帰る。一人喜ぶのは品子ばかりだ。とにかく、この様なことで、冽(たけし)も余り社交界が面白くなく、特に、妻の健康も気遣われるから、いっそしばらく気を抜くのも好かろうと思い立ち、母親と品子をも連れて、漫遊に出て、このイタリアに足を留めたのが昨年である。

 今年は良彦も早や6歳という、いたずら盛りになっている。品子もあたら盛りの日を過ごすばかりで、段々意地が悪くなる。全体、アレから上にまだ意地が悪くなる余地があったのが不思議だ。

 本当を言えば、冽が母親と品子を家に残し、澄子唯一人を連れて旅立てば好かったのだ。澄子も勿論そうして欲しかった。けれども、悲しいことには、冽の身には、品子が傍にいてくれなければ、何やら物足りないというようになって来ていた。

 ある人の言葉に、
 「紳士が自分の内君と差し向かいで居るのを寂しく思う時が来たら、運の尽きだ。」
と言っているのがあるが、この「運の尽き」と言う時が、冽の身の上に押し寄せて来たのだ。けれど、冽は品子と母親を伴ったために、どんな一大事が起こるかなどとは、毛ほども思って居なかった。

 それはさて置き、澄子が独り言をしている所に、橙花芳しい植え込みの中から、良彦が、棒きれを持って現れた。6歳とは言え、7歳くらいに見える程成長している。

 悲しそうだった澄子はこれを見て、たちまちその顔に嬉しい色を浮かべ、
 「オオ、良彦」
と言って、庭に降り、抱き上げてベンチに腰を下ろし、全くしばらくの間、世をも自分をも忘れて、嘗(な)め回す程にした。

 実に母の愛というものは驚くべき力だ。もし、良彦を見て時々自分の心を慰める事がなかったなら、澄子の健康は今のような事では治まっていなかっただろう。この様にしているところに、冽(たけし)と品子とが又現れて来た。

 けれど、澄子はほとんどこれにも気がつかない様子で、やがて良彦を抱き直し、溢れるほどの愛を顔に浮かべ、良彦の顔を見直した。何故かは分からないが片方の瞼が少し腫れて、そして、目の中が赤くなっている。

 「オヤ、この目は」
と澄子は叫んで、更に心配しながら、
 「どうかしたの。」
と聞いた。良彦は自慢するほどの様子で、
 「村の子と喧嘩して来た。」

 「アレ、まあ、喧嘩などしてはいけないと、昨日もお母さんがあれほど言って聞かせたのに」
と真実驚いた様子である。



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